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阿騎野・人麻呂公園 中之庄遺跡




	阿騎野(あきの)・人麻呂公園は、大宇陀町のほぼ中央部、宇陀川支流の本後川と黒木川に挟まれた丘陵端部に位置してい
	る。ここから東方に高見山をはじめとした宇陀の連山、近くに古城山、北は万葉公園、西は西山岳、南は吉野の峰峰を望め、
	「かぎろひ」は高見山方面に見る事ができる。持統6年( 692年)冬の一日、文武天皇となる前の軽皇子の伴でこの地を訪
	れた柿本人麻呂が「ひむがしの野にかぎろひの立つみえてかえりみすれば月かたぶきぬ」と名歌を残したゆかりの地である。
	現在公園には、昭和15年に立てられた万葉歌碑が立ち、その碑面に佐々木信綱の筆による人麻呂の歌が刻まれている。

 




	平成7年(1995)の発掘調査によって、この地が古代の狩り場(薬猟)であった「阿騎野」の重要施設であることが判明し、
	町では保存整備委員会を発足させた。そして、調査された「中之庄遺跡」の遺構を復元保存し、故中山正實画伯の壁画「阿
	騎野の朝」をもとにした柿本人麻呂石像を建立し、「阿騎野・人麻呂公園」として保存・整備している。公園内には掘立柱
	建物2棟、竪穴式住居1棟や、発掘跡等々が復元されている。また、毎年、大陰暦の11月17日には「かぎろいをみる会」
	が行われ、様々なイベントが催される。

 

下の碑文を読む河内さん(上左)。この日は、町のJAの主催で農業祭りのようなイベントが行われていた。



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	2.中之庄遺跡

	中之庄遺跡は、大宇陀町市街地の西側に東西に延びる微高地上に立地する。これまで4次を超える調査が実施され、縄文時代
	早期から中世に至る複合遺跡であることが明らかとなっている。ことに、1995年に大宇陀町教育委員会によって行われた3次
	調査では、飛鳥時代の建物群等が検出され注目を集めた。

	確認された飛鳥時代の遺構には堀立柱建物11棟以上、竪穴住居跡3棟、塀、石敷溝、苑地状遺構などがある。堀立柱建物の
	うち最大のもの(SB01)は、桁行五間、梁間二間(桁行柱間寸法七尺−約 2.1m、梁間柱間寸法十尺−約 3m)の規模を持つ東
	西棟で、中心建物の一つと推定される。また石敷溝は、浅いU字形の溝底に1〜3cm大の小石を敷き詰めている。現存値で、
	幅 0.3−3m、長さ約 20mを測る。苑地状遺構に向かって伸び、その先端は苑地状遺構の汀線と接し一体となる。この堀立柱建
	物を中心とした飛鳥時代の遺構群は、建物方位や重複関係によりいくつかの小期に分れる。その中の一時期には、SB01を中心
	に、その周囲に附属する建物群や庭園風の施設が配される構造を持つ、宮的な施設が存在した可能性が強い。その時期は出土
	土器から7世紀後半〜末に位置づけられる。

	ところで、中之庄遺跡周辺は記紀、万葉集にみられる古代「阿騎野」の推定地であり、既述したように当該期には、壬申の乱
	関連の事項(672年)、天武天皇の行幸(680年)、軽皇子の遊猟(692年)等の記事に、「菟田吾城」(うだのあき)として登
	場する。調査によって検出された飛鳥時代の遺構群は、その内容及び経営年代よ文献記事事項との一致等から判断して、先の
	文献に「菟田吾城」として記される「阿騎野」の中心施設の一端である公算が高い。また、調査地周辺部の地籍図(明治23年
	測図)の調査から、調査地の南側に隣接する大宇陀町体育館敷地部分に東西約50m、南北約80mを測る長方形の区画割が
	存在する事が判明した。(図2網部分:省略)。

	この部分は周囲よりも一段高く、調査地付近の筆界がすべて自然地形に即した水田畦畔に沿う形で存在するのに対し非常に特
	異である。加えて、この区画割の筆界方位が、堀立柱建物 SB01の方位と一致する事も注目される。地割りの形成そのものが
	飛鳥時代に遡るかどうかは現時点では不明である。しかし、大宇陀町体育館部分に掘立柱建物 SB01と方位を同じくするよう
	な、一定の長方形区画が存在した可能性も指摘できよう。

	【大宇陀町教育委員会 2001年3月30日発行「大宇陀町文化財ライブラリー・・・2 阿騎野と中之庄遺跡」より抜粋】
	(以下図、発掘写真も同資料より転載。)




 

 


	前出の教育委員会の資料でも明らかなように、これらの遺構は官営の役所だった可能性大である。「阿騎野」は「薬狩り」
	の地として古くから知られていた事を考えると、草壁皇子や軽皇子もここに宿泊したかもしれないのだ。今、私の立ってい
	るこの地に、天武天皇が寝たのかもしれないと思うと、感慨もまたひとしおである。稜々たる古今なるかな。

 

 


	「えぇ〜、飛鳥時代も竪穴式住居なん? こんなん縄文時代とちゃうの。」と誰かが言っていたがとんでもない。掘立柱の
	住居に住めた階層はごくごく僅かであり、多くは官営の建物か有力者の住居だった。一般庶民は多くが竪穴式住居だったの
	だ。地域によっては鎌倉時代、室町時代になっても、竪穴式住居に住んでいたのである。

 

 





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