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本居宣長



住居「鈴屋」と資料館 2003.3.22 三重県松坂市




	松坂城の一画に、松坂が生んだ偉大な国学者「本居宣長」の、移築された住居跡と資料館がある。あいにくの小雨模様の空だった
	が、邪馬台国の研究においても新井白石と並んで先駆者とされる宣長の、その生涯の一端を垣間見れて幸せだった。

 

	【本居宣長(1730〜1801)】

	享保15年5月7日(新暦1730.6.21)〜享和元年9月29日(同1801.11.5)。享年72歳 。江戸中期を代表する国学者。幼名富之助。
	俗名は弥四郎、後に健蔵と改めたが、26歳から宣長と改めそれ以後は新たな名前は使用していない。実名は栄貞(よしさだ)、
	号は石上、芝蘭、春庵、66歳から中衛を用いる。

	伊勢国松坂(三重県松阪市)の木綿商の跡取り息子として、享保15年(1730)松阪に誕生したが、幼くして父を亡くし廻りから商
	人教育を施されるが、和歌・漢文に熱中し学問に魅了されていた。母の願いにより長じて医者となる。医業の傍ら「源氏物語」や日
	本古典に傾注し、「源氏物語玉の小櫛」、「玉勝間」、「うひ山ふみ」、「秘本玉くしげ」、「菅笠日記」などの著作を著す。34
	才の時、江戸の国学者・賀茂真淵との「松阪の一夜」と呼ばれる運命の出会いを経て、生涯を通じて「古事記」の研究に没頭し、3
	5年の歳月をかけて「古事記伝」全44巻を刊行する。古語の読法研究、神々の系図、神道の解釈、天体の動きなど、膨大な研究を
	「古事記伝 」としてまとめ終わったのは69才の時であった。鈴と山桜を愛し、53歳の時に増築した自らの書斎を「鈴屋」と呼び、
	これを屋号にも使用した。松坂に生まれ、医者として松坂で開業し、松坂の町で一生を送った、皇国史観の塊のような学者だった。

 

	「邪馬台国入門」のコーナーで述べたように、宣長は、邪馬台国についても相当研究しているが、彼は新井白石ほど倭人伝を信用せ
	ず、中国の史書に対して多くの疑念を持っていた。というより、皇国史観の塊のような考えだったので、我が国の首長が中国に朝貢
	などする訳がない、むしろ逆であると考えていたのだ。倭人伝の多くの記事を「これは間違い」「これは一月ではなく一日の誤り」
	などとして、邪馬台国は筑紫にあり,卑弥呼は,熊襲の類が神功皇后の名を語るのに用いたものであるとした。邪馬台国問題におけ
	る、今日にも見られる原文の恣意的解釈は、本居宣長に始まったとも言える。天明4年2月、宣長が55歳の時、九州博多湾に浮か
	ぶ志賀島で金印が発見される。江戸時代にもかかわらず、その情報は宣長の元へ結構速く伝わっている。金印発見は宣長の生存中で
	あったが、宣長が金印について書いた論文は残っていない。しかし知人からの質問に答えた手紙で金印に触れている。そこでも、こ
	れは熊襲の類(たぐい)が勝手に漢へ行って貰ってきたものだから尊ぶ必要はない、ただ相当古いものではあるので珍しいものとは
	言える、等と述べている。これは、儒教仏教の影響を受けず、純粋固有の日本古代の道を突き進む宣長の、国粋主義的性向から導き
	出された結論であった。我が国の朝廷を神格化するあまり,漢に貢ぎ物をしたり漢の皇帝から倭の国王を名乗る事を許されたり、ま
	るで我国が漢の従属国のように扱われるはずがない、と考えていたのである。従って,漢に朝貢などしたのは九州に住む熊襲の類で
	あって断じて日本の天皇ではない、と主張したのである。宣長以後,鶴峰戊申(1788〜1859)や近藤芳樹(1801〜80)などが宣長の説を
	発展させた。



	宣長は、門人で第75代出雲国造千家俊勝の次男である千家俊信(せんけとしざね)から貰った図(金輪造営図)で、「出雲大社」
	が古代に壮大な高さを持った神殿であったことを知る。そしてそれを「玉勝間」で世間に紹介し、その伝承に疑問を持ちながらも、
	真実が含まれているのではないか記している(「玉勝間」巻13「同社金輪の造営の図」)。その時から200年以上たった、平成
	12年(2000)、宣長の想像が現実のものとなって姿を現したのはまだ記憶に新しい。


 
	本居宣長の長男「春庭」(はるにわ)が、宝暦13年(1763)2月に誕生した。その年の5月、宣長は賀茂真淵と初対面する。
	資料館の外庭の一角にこの碑が建っているが、ここがその対面の屋敷跡なのである。宣長は、かねて「冠辞考」を通じて多大な影響
	を受けていた真淵とここで初めて対面し、翌年門人となる。この後、真淵が死去するまで約6年間、書簡の遣り取りによる添削を受
	ける。賀茂真淵との出逢いは、生涯この一度きりであった。宣長は晩年、各地に古典の出張講義をする等、国学の普及と後進の育成
	にも努めているし、門人は全国にいた。また平田篤胤のように、宣長死去後に門人となった者もいた。


	【賀茂真淵(かものまぶち:1697〜1736)】
	遠江浜松の神職の子。荷田春満に学びのち田安宗武に仕える。「万葉集」と「古事記」の研究から古道説を説く。「国意考」「万葉
	考」の著作がある。「国意考」(こくいこう)・・・真淵の著。1765年の成立、1806年刊行。国意とは儒仏の影響を受けな
	い純粋国有の日本古代の道で復古思想を主張した。

 



	【平田篤胤(ひらたあつたね:1776〜1843)】
	秋田の人。20歳のとき江戸に出て苦学し、25歳のとき備中松山藩士平田篤穏の養子となって藩主板倉家に仕える。本居宣長に入
	門せんとするも宣長没により果たせず。宣長に比べて著しく宗教的神秘的色彩が濃厚。復古主義・国粋主義の立場を強め、復古神道
	を大成。著書に「古道大意」などがある。平田派国学は、農村有力者に広く信奉され「草■(そうもう)の国学」として尊皇攘夷運
	動を支えた。



	【復古神道(ふっこしんとう)】
	宣長・篤胤の神道説。儒仏に影響されない純粋な古道を明らかにし、民俗信仰である「惟神の道」(かんなががのみち)復活を説く。
	平田篤胤により尊王論とつながり、明治維新の指導理念の一つとなる。

 

		
	京都遊学時代には堀景山に入門し、漢學を修め、冷泉流の森河章井尹(あきただ)に和歌を學んだ。その他この在京中に契沖の著書
	を読み感化されたとされる。帰郷後は小児科医として開業し、門人を集めて「古典学」の講義を始めた。

	宣長50歳代が天明年間(1781〜89)にあたり、世の中は飢饉に噴火、政変、大火と大混乱の中にあるが、宣長はその学問業績を積み
	重ね、執筆中の「古事記伝」も次第に全国に知れ渡り、宣長の名声も高まる。諸国からの入門者、来訪者も増えていった。 
	熊本県山鹿市の神職であった帆足長秋は、「古事記伝」の刊行を待ちきれず、娘京と「古事記伝」書写の旅に発つ。 帆足京は15歳
	の若さながら、見事な書体で古事記伝を書写し宣長を驚かせた。帆足長秋・京親子の書写した「古事記伝」は本居宣長記念館以外で
	は、唯一現存している全巻揃いの古事記伝写本となっている。熊本博物館前には、旅立つ帆足長秋・京父娘の像がたっている。

 

		
	「古事記伝」とは、本居宣長が35年をかけて書き終えた「古事記」の注釈書である。第1巻では、「古事記」の価値を説き、「日
	本書紀」等との比較、書名、諸本、研究史、また解読の基礎となる文体論、文字や訓法について書き、宣長の古道についての考え方
	を述べる。第2巻は序文の解釈と系図が載る。第3巻から第44巻が本文とその訓読、注釈である。書かれてから既に200年が経
	過しているが、いまだに「古事記」研究書の第一ステップとされている。宣長が古事記伝をいつ頃書き始めたかは不明であるが、
	賀茂真淵との対面前後であるようだ。随所に真淵の「古事記は真実の書だ」という真淵の影響が見られる。



		
	宣長は「うひ山ふみ」の中で、「道をしらんためには、殊に古事記を先とすべし、まづ神典は、旧事紀、古事記、日本紀を昔より、
	三部の本書といひて、其中に世の学者の学ぶところ、日本紀をむねとし、次に旧事紀は、聖徳太子の御撰として、これを用ひて、
	古事記をば、さのみたふとまず、深く心を用る人もなかりし也、然るに近き世に至りてやうやう、旧事紀は信の書にあらず、後の
	人の撰び成せる物なることをしりそめて、今はをさをさこれを用る人はなきやうになりて、古事記のたふときことをしれる人多く
	なれる、これ全く吾師ノ大人の教ヘによりて、学問の道大にひらけたるが故也。」と書いている。


	「道を知るためにはまず「古事記」を第一番にすべきである。神典は、「先代旧事本紀」、「古事記」、「日本書紀」を昔から、
	三部の書と言って、学者が一番研究するのは「日本書紀」で、次が「先代旧事本紀」、これは聖徳太子の御撰であるとして尊ばれ、
	「古事記」はあまり重用視されず、特に注目する人もいなかった。それが近年「先代旧事本紀」は偽書で、後世作られた書だとい
	うことをみんなが知り、これを使う人はいなくなった。「古事記」が重要だと注目されるようになった。これはまったく我が師・
	賀茂真淵によって学問が開けてきたためである。」と述べて、古事記の重要性を強調している。

 
古事記伝の版木(上右)とそれを用いて印刷された古事記伝(上左)

		
	また古事記は、漢文の文飾が無く、古くからの伝説のままにて、記述の仕方も昔のままで他に例が無く、上代のことを知る上でこ
	れに勝る本はない、とも書いている。「神代」のことも「日本書紀」より詳しくたくさん書かれているので、道を知ると言う目的
	からは第一の古典であるとしている。




	「古事記伝(こじきでん)」 巻1,2 本居宣長自筆稿本 〔天明5-8(1785-88)〕 2冊 27.4×18.9cm
  
	宣長自筆の稿本は草稿(初稿)本、巻17(版本巻18)-44の27巻22冊、再稿本全44巻44冊が本居宣長記念館と天理図書館に現存する。
	上下は国会図書館が保有する、巻1(総論)、巻2(『古事記』序文の注釈、神統・皇統の系譜)の最終稿本と考えられ、宣長自筆と
	伝えられる。随所に付箋や朱などによる加筆訂正が見られる。宣長の推敲の跡を窺うことができ、「古事記伝」成立の過程を知る
	ための重要な資料とされている。「須受能屋蔵書」の印記がある。







 

 



 

「本居宣長44歳自画自賛像」

 


	【奥墓 (オクツキ)】松阪市山室町高峰1365
	宣長の指示に基づいて遺体が埋葬されている。墓の上には山桜が植えられ、毎年4月下旬頃満開となるそうである。国指定史蹟。
	宣長は死に臨んで、自分の墓や葬送の作法についても遺言して逝った。墓は樹敬寺と同寺隠居寺妙楽寺境内地の山頂にある。遺言
	通り、山室山にある奥墓(宣長はこう書いて「おくつき」と呼ばせている。)には山桜が植えられている。家は浄土宗知恩院派樹
	敬寺の檀家だが、個人的には吉野山の水分神社を信仰していた。



 




本居宣長旧宅(鈴屋)





	【本居宣長旧宅(鈴屋)】
	宣長12歳から72歳で没するまで60年間にわたって暮らした家。建物は元禄4年(1691)に松阪職人町に建てられたがその後、
	魚町に移築された。明治42年、松阪城跡の現在地に移築され、宣長在住当時の姿に復元し公開されている。この建物の二階の書
	斎が「鈴屋」である。現在、保存のため二階へ上がる事はできない。松阪市魚町の本居宣長旧宅跡には、春庭が住んでいた家と
	土蔵、また宣長が愛した庭の松が残されており、国の特別史蹟指定を受けている。
 



 

 

 

 


	現在、宣長関係の史蹟は全て、「鈴屋遺蹟保存会」という法人の管理下にあり、本居宣長旧宅(国特別史跡)、本居宣長旧宅跡・附
	春庭旧宅、土蔵(国特別史蹟)、本居宣長奥墓(国史跡)が整備されている。松阪は、三井家発祥の地でもある。市内にはその建物
	跡が残っているそうだ。

 




	【略歴】
	 8歳  15歳まで西村三郎兵衛、斎藤松菊に手習いや千字文、岸江之仲に謡曲と四書を習う。
	16歳  1年間、江戸の叔父の店で修行。 
	17歳  浜田瑞雪氏に弓の指南を受ける。 
	19歳  伊勢の今井田家の養子になり紙商となるが、21歳で養子縁組み解消、紙商も離職。 
	23歳  京都の堀景山塾で漢文学を学ぶ。
	24歳  京都の堀元厚塾で医学を学ぶ。
	25歳  堀元塾閉鎖のため武川幸順塾に再入学。 
	26歳  武川塾卒業。引き続き同所で医療実習を受ける。 
	28歳  帰郷後、松坂魚町で内科、小児科医を開業。 
	29歳  松坂魚町宅等で古典講釈塾を開き「源氏物語」等町人に教える。 
	34歳  宝暦13年(1763)、江戸の国学者賀茂真淵と一夜対面、翌年入門、文通で指導を受ける。賀茂真淵が死去するまで
		 約6年間続いた。
	52歳  天明元年(1781)。「古事記伝」執筆、「古事記」中巻の伝に着手。 宣長宅で賀茂真淵十三回忌を開催。 
	53歳  「詞の玉緒」版下出来る。「天文図説」「真暦考」成る。書斎「鈴屋」竣工。 
	55歳  天明4年(1784)2月、志賀島で金印が発見さる。 
	56歳  「漢字三音考」「詞の玉緒」刊行。 
	57歳  「古事記伝」巻2、板下を名古屋に送る。出版開始。「玉鉾百首」出版。上田秋成との論争始まる。 
	58歳  家斉、11代将軍となる。「木枯森碑文」執筆。「国号考」刊行。「秘本玉くしげ」「玉くしげ」を紀州藩主に献上。
	63歳  紀州徳川家(五十五万五千石)に仕官(但し松坂住み)、資格は医師ながらもっぱら古典講釈をおこなう。
		 没年までに和歌山に三度出府し藩主、また清信院に進講する。 

	【著書】 78種206冊3表
		(代表作「古事記伝」44冊、「源氏物語玉の小櫛」9冊、「詞の玉緒」7冊、「玉勝間」15冊)
	【歌】  約1万首
	【書簡】 1021通 (受取人保管分のみ)
	【門人】 489名(外に没後門人2名) 



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