Music:End of the World
信長の館 2001.6.3(日) 滋賀県安土町


歴史倶楽部の河原さんと、安土考古博物館に特別展「韓国(からくに)より渡り来て」展を見に来て、隣の「信長の館(やかた)」に寄った。




	1992年スペインの「セビリア万国博覧会」に出品された、日本館のメイン展示である安土城天主の最上部、5階6階部分がここに
	引き取られ展示されている。東京大学・東京芸術大学・京都市立芸術大学の指導の元に復元されたこの天主は、内部の障壁画とと
	もに原寸大で忠実に復元されており、博覧会開催期間中は、もっとも多い入場者を記録し、ヨーロッパのひとびとの日本文化への
	関心の高さを示した。

 


	1579年(天正7年)「織田信長」の命令によって建築された安土城は、日本で最初に天守閣を備えた城であっただけでなく、世界で
	初めての木造高層建築であった。その高さ46mの壮大で絢爛豪華なさまをキリスト教宣教師は、「ヨーロッパにもない、非常に壮大
	で豪華かつ華美な城である。」と本国へ書き送っている。しかし1582年、「本能寺の変」後半月足らずのうちに、築城わずか3年で
	安土城は焼失し、長年の間、その外観・構造・様式は解明されず、「幻の名城」と呼ばれていた。






	近年、加賀藩の御抱大工の家に伝わっていた「天守(主)指図」(てんしゅさしず)が発見される。愛知産業大学学長、内藤昌教
	授により、「信長記」・「信長公記」などの文献資料との照合や、遺跡発掘・実測調査の結果、この指図書にかかれた建築物こそ
	「安土城」である事が解明された。そして前述の万国博出品のため、400年を経てその栄姿が復元されたのである。




	信長は総普請奉行に惟住五郎左右衛門(丹羽長秀)を任命し、諸国の侍を動員して土木工事にあたらせた。ついで、尾張出身で室
	町幕府御抱大工をつとめた岡部又右衛門を大工棟梁に、絵師の狩野永徳・光信父子、金工の針阿弥・後藤平四郎といった当時「天
	下一」の名工を集め、建築工事を始めている。瓦はわざわざ明(中国)から一観をよびよせ、唐風にデザインされている。






	土木工事を普請と言い、天下普請は、手伝う大名の石高により請け負う部分の面積が割り当てられていた。安土城の石は、地元近
	江を含む12ケ国の侍達が近江から運んだものである。修羅に大石を乗せ、大人数で力を合わせて引いた。その大石の上では、南蛮
	風衣装を着た数人が、鐘や太鼓で音頭をとっていた。普通の石は牛車やべかぐるまで運び、石垣の裏に詰める小石(裏ごめ石)は、
	もっこや石負子で運んだ。





  




	万博終了後、その「天主」を安土町が譲り受け解体移築し、新たに5階部分に、発掘された当時の瓦をもとにして焼き上げから再
	現した「庇屋根」、天人の飛ぶさまを描いた天井「天人影向図」(てんにんようこうず)、6階部分に金箔10万枚を使用した「外壁」、
	「金箔の鯱(しゃち)をのせた大屋根」が取り付けられた。内部には当時信長が「狩野永徳」を中心に描かせた「金碧障壁画」も
	再現されている。

 

 

 



 



 



 

 

 



















天主6階・観覧デッキにて。上右は河原さん。まさしく「目がくらむような」豪華さである。





上は鬼瓦を正面から見たところ。鯱の腹の部分が見えている。 黒漆塗の床(下)に、戸や障壁画が映る。



4・5階部分の踊り場から入り口付近と、内部の展示場・売店方向を見下ろす。(下)

 

会場内には、安土城大手門左手側に建っていた「木下藤吉郎邸」の復元模型も展示してあって、ハンドルで回転するようになっていた。






	信長ファンなら絶対一度はここに来るべきである。当時最高の技術を用いて、西洋建築にも劣らない、日本最初の天主を持った
	城を、信長がいかなる考えでここに築こうとしたのかを、確かな手応えをもって感じる事ができる。



邪馬台国大研究ホームページ / 歴史倶楽部 / 安土・信長の館