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楠公生誕地






  

		【楠公誕生地 】

		「名は体を表す」の通り、石碑の周りは楠に囲まれている。石碑には「楠公誕生地」と刻まれている。この碑は大久保利通が建立した
		ものだそうだ。楠公誕生地は「道の駅 ちはやあかさか」の中にあり、隣には千早赤阪村郷土資料館もあって、古代からのこの村の概要
		が展示されている。ここを出て自動車道へ出ると、「楠公産湯の井」の案内があって、楠正成が産湯に使ったという井戸の跡が残され
		ている。

 

  

		【楠木正成 】(くすのき まさしげ:1294〜1336年・南北朝期の武将)

		大楠公とも呼ばれる楠正成は、永仁2年(1294)現在の大阪府南河内郡千早赤阪村水分に生まれた。

		鎌倉末期、140年あまり続いた幕府は衰退期を迎え、天皇親政を望む機運が高まっていた。この機に後醍醐天皇は王政復古を唱え全国の
		武士階級に檄を飛ばす。南河内郡一帯の有力な豪族であった楠木正成は、元弘2年(1332)後醍醐天皇(1288〜1339)の皇子護良親王
		(もりよししんのう)が吉野で挙兵したのに呼応して、奈良県と大阪府の境にある金剛山麓の千早赤阪城(下赤坂城)で挙兵した。
		鎌倉幕府軍の攻勢に一旦下赤坂城は奪われるが、翌年上赤坂城を築き、下赤坂城も奪還する。元弘3年(1333)には長期間赤坂城に立
		てこもり抗戦した。正成の千早城は1000人、対する鎌倉勢20万人。数の上では到底勝ち目はなかったが、正成は奇襲戦法で敵を翻弄し、
		自然の地形を利用し山の上に城を建て、城の上から石、木材、煮え湯、糞尿等を落として攻撃した。千早城は尾根道を伝って金剛山に
		繋がっている。金剛山には山伏がいて食料や情報が常に入ってきていたという。
		鎌倉軍苦戦の情報はたちまち全国に伝播し、この戦に呼応して全国の悪党(地方の勢力を持った反幕府の意志を持った者達)も挙兵し、
		幕府軍の兵糧を断ち、各地の幕府軍の領地で暴れ始めた為、鎌倉幕府はもはや千早城責めどころではなくなっていった。やがて新田義
		貞(1301〜38)らが鎌倉へ攻め込み、元弘3・正慶2年(1333)、鎌倉幕府は滅亡する。

		鎌倉幕府滅亡の原動力は、後醍醐天皇の倒幕運動に賛同した、楠正成、播磨の赤松円心などの地方豪族(悪党)及び、幕府の有力御家
		人であった足利尊氏、新田義貞たちの活躍によるものであったが、特に楠木正成は、天皇の隠岐流配後もわずかな精兵を擁して、赤坂
		城、金剛山、千早城と転戦し、鎌倉の北条政権を崩壊へと導く原動力となった。後醍醐天皇は、功労者として正成を従五位下検非違使
		(じゅごいしたけびいし:警察、検察、裁判を行う職)に任命した。建武政権下で河内の守と守護を兼ね、和泉の守護ともなった。


 

  

		こうして同年後醍醐天皇親政による「建武の新政」が始まったが、この天皇専制の政治はあまりにも公家を重視し、武家を軽視する傾
		向が強かったために、武士層の不満が高まった。足利尊氏は、各地の不平武士団の統領に祭り上げられ、ついに後醍醐天皇に反旗を翻
		した。尊氏は緒戦の京で敗北したが、逃げのびた九州で態勢を立て直し、京に向けて攻め上ってきた。この合戦においても、天皇の厚
		い信任に応えた正成であったが、足利軍に負ける戦いであることを覚悟していたとも言われている。僅か700人(350人とも)の精兵を
		引き連れて都を出、途中桜井駅(現在の大阪府三島郡島本町)で11歳になる息子の正行と今生の別れをして、湊川へ向かった。この
		場面は、後世「桜井の別れ」として講談・歌舞伎・仮名手本などで有名になる。

		延元元年・建武3年(1336)の夏、神戸に陸海両面から約50万人の足利大軍が押し寄せてくる。これを迎え撃つのが、後醍醐天皇側
		の新田義貞、楠正成を総大将とする、およそ2万の連合軍であった。この時、正成は手勢700人で、会下山に陣をしいたが、圧倒的
		に不利な戦力の前に、湊川(現在の兵庫県神戸市)の戦いで破れ自刃した。
		『太平記』によれば−

		湊川の民家に入った楠木一族十三人、その家来六十余人が客間に並んで座り、念仏を唱えて一斉に腹を切った。最期に上座に坐ってい
		た正成は、弟 正季に向かって「来世では何を 願うか」と問うと、正季は「七生まで、ただ同じ人間に生まれて、朝敵(足利軍)を滅ぼ
		さばやとこそ存じ候へ」と答えた。それを聞いた正成は、嬉しそうに「罪業深き悪念なれども、われもかやうに思うなり、いざさらば
		同じく生を替えて(生まれ変わって)この本懐を達せん」と約束して、兄弟ともに刀を刺し違えて死んだ。

		戦後、楠一族の霊を弔うために小さな塚が築かれたが、時代は流れ、弔う人も少なくなり、長年にわたって荒廃していた。その後、豊
		臣秀吉が検地の際、その功績に鑑みここを免租地と定め、元禄5年(1692)には徳川光圀(水戸黄門)により、自筆の「嗚呼忠臣楠氏
		之墓」と刻んだ墓石が建立された。幕末から維新にかけては、坂本龍馬を始め勤王の志士たちが、この墓前で至誠を誓ったと言われる。
		維新後、明治5年(1872)明治天皇によりこの墓跡に湊川神社が建立された。忠臣「楠正成」は、現在この神社に祀られている。 


神戸の湊川神社。阪神大震災で全壊したが、現在は元通りに再建されている。



  

		現在、皇居外苑の南東の一角に、花崗岩の台座に据えられた騎馬武者像がある。楠正成の銅像である。この銅像は、別子銅山を開いた
		住友家が、開山200年の記念として企画し、東京美術学校に依頼・作成して宮内庁へ献納したもので、高村光雲など東京美術学校の
		職員らにより当時の技術の粋を集めて作成され、明治37年7月に完成し献納された。







楠公産湯井

ほんまかいな、と思うような史跡だが、忠臣楠正成を誇る地元の篤い思いは十分伝わってくる。

 

 

 



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