Music: Memories in Sanfrancisco
新緑の中仙道を往く 2001.5.1(火).2(水) 岐阜県・長野県 


	連休ど真ん中で、wifeが温泉に行きたいと言う。今度の連休には私ばかりアチコチと出かける予定なので、ささやかに抵抗して
	いるつもりなのだ。いきなり 「新穂高温泉」 ときた。山も見れるし、信州の遺跡にも行けるかもしれないと思ってOKしたが、
	実に素晴らしい小旅行になった。






牛丸ジュラ期化石


	岐阜県荘川村牛丸という所を通りりかかったら、窓越しに「・・化石」という立看板がチラッと見えた。あわてて車をUター
	ンさせ寄ってみた。なんと「ジュラ紀の化石」である。三葉虫や二枚貝の化石がこの前を流れる庄川の河原にあるのだ。国道
	156号線。通称「白川街道」沿いに記念碑が立っていた。ここは、海の底から隆起した場所なのだ。







 





蛇行河川敷(御母衣湖)




	庄川をせき止めてできたダム、御母衣湖。そこにかかる岩瀬橋から見た、水の引いた河川敷。まるでグランドキャニオンのよ
	うな光景だったので、思わずシャッターを切っていた。この河川敷にも、大昔の化石がゴロゴロしていたらしい。





帰雲城


	御母衣湖をすぎて白川郷へはいる白川j街道の道筋に、また看板を見つけた。「・・城」と見えたので、こんな所に城跡があ
	るんかなと思いながら寄ってみると、まるで半村良の小説にでも出てきそうな名前だった。「帰雲城」 なんとかっこいい名前。
	しかし、かっこいい名前と裏腹に、城のたどった運命は悲惨だ。大地震で一夜にして陥没。なんという・・。 
	真新しい石碑がその数奇な城の運命を語っている。

 

 


	以下は、上右の説明版の内容。ところどころ読みとれない箇所がある。


	帰雲城趾

	帰雲城は、寛正元年(1460)信州の武将内ケ島為氏が、足利義政の命で白川郷に攻め入り向牧戸(荘川村)に城を築き、寛正5年
	(1464)に牧戸城を川尻備中守に与え、保本脇(白川村)に築城、「帰雲城」と名付け、川尻備中守、尾神備前守、山下大和
	守等有力な家臣を背景に一層努力を増して、文明7年(1475)遂に嘉念坊第九世明教を敗って(ママ)白川郷を治めた。
	天正13年(1583)、越前大野の城主金森長近が秀吉の命をうけ白川郷え(ママ)進入し遂に降伏和睦した。
	同年、■月29日に大地震が起こり、帰雲城が崩壊し、時の城主内ケ島氏理以下主従300余戸、154名は人馬とともに圧死し膨大
	な崩壊土砂のため埋蔵金や財宝の遺跡ケ(?)所が判明していないので「幻の城」と呼ばれている。

	白川郷平瀬温泉旅館利用組合











白川郷


	写真ではよく見るが、実際に来たのははじめてである。我が歴史倶楽部の栗本さんの奥さんはここの出だと言っていた。初
	夏の緑を期待して来たが、山々はまだ深々と雪を戴いている。山里も、新緑どころか立ち枯れの林が残っている所もあった。
	そういえば、御母衣湖の畔には桜の花見客が大勢いた。大阪とは1ケ月以上季節が違う。



 

 





 

 

 

 

 

 

 




	近在から出土したのだろう、石器や土器のかけらが無造作に陳列されている。ここにも古代人の息吹があった。

 







新穂高温泉




	初めて新穂高ロープウェイに乗った。若い頃は徒歩で、この麓を歩いて眺めた北アルプスの山々が、大迫力で迫ってくるの
	には感動した。くっきりと晴れて、全山見渡せて最高だった。40分程すると一斉にガスってきて、瞬く間に雲に隠れてしま
	った。LUCKYだった。翌朝旅館の露天風呂で一緒になった夫婦は、「10回ほどここに来ているが、昨日のように晴れたのは
	初めてだ。」と言っていた。

 


	例によってINTERNETで予約した「山本館」という旅館。部屋も料理もさほどではなかったが、露天風呂からの眺望はすごか
	った。山並みが連なっていた。朝5時頃一人で露天風呂に行ったら、中年の夫婦が1組入っていて色々と話をした。静岡か
	ら来たと言っていた。

 









これより木曽路・中仙道







贄川宿・木曽考古館









木曽福島関所



 



 

 



 





木曽義仲墓所

 

 


	この地方の地酒を土産に買うと言うので、探し回ってやっと見つけた「七笑」本店。税務署で場所を聞いた。まぁまぁの味だ
	った。中の上かな。





平(だいら)遺跡




	馬籠宿の近くで、これも偶然見つけた遺跡。この看板が朽ちたら、誰もここにそんな遺跡があったなんてわからんだろうなぁ。
	岐阜県中津川市。





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