SOUND:Penny Lane

お別れ南部(みなべ)行
那智の滝・熊野那智大社・大地町・潮の岬

−河原さんの東京転勤を機に−
2003.5.24(金)/25(土)






	我が歴史倶楽部の、自称主任研究員河原さんが東京へ転勤になった。某ツーカーホン関係の大阪会社の役員から東京会社の役員へ
	横滑りしたのだ。関西歴10年になるので、本人は去りがたくもあるようだが、家族は東京なので、やはり戻った方が健全だろう。
	歴史倶楽部としては非常に残念だが仕方がない。河原さんの友人中村さんが、和歌山県南部川村清川でやっているペンション「紫
	音」にももう行く機会が無くなるというので、今回はお別れ南部川紀行となった。例年有志でここを拠点に紀州散策を楽しんでい
	たので、河原さんがいなくなれば、ここへ来る機会も減ることだろう。今回は、服部さんと三人で、河原さんがまだ行ったことが
	ないという熊野の那智を中心に廻ることにした。栗本さんは株主総会の準備で来れなくなった。上は我々と中村さん夫妻。

那智の滝


	【飛瀧神社・那智の滝】
   
	飛瀧神社の御神体・那智四十八滝の一の滝。高さ133m、幅13m、日本一の高さを誇る。200円払って滝の近くまで行き、滝の前で
	水しぶきを浴びると顔に当たる水が気持ち良い。側まで行くとほんとに大きい。水飛沫が舞う様は幻想的でもある。杉木立の聲え
	る鎌倉積の石段を通じ、絶壁より一直線に落下するその姿は実に美しく神秘そのものである。垂直に133mを落下する滝、万物の根
	源である水が、さながら天上より地上へ天降るような那智の滝は、古代人でなくとも神の降臨する柱と崇めたいような気になる。
	この滝を神と仰ぎ祀ったのが那智大社の起源と聞いて、さもありなんという気になる。那智大社の祭神、大己貴命はこの地の地主
	神として余所から呼び込まれた神名であり、本来の地主神は那智の滝に坐す神であった。

 

那智へ入ったらズーツと道路に花びらが散っていて、「山はさすがに遅いのぉ。
今が満開で散っとるわ。」とか言っていたら、道路の模様だった。

 

 



 

 

何度見ても、この滝はほんとに神々しい。気高く、厳かだ。

 











	熊野那智大社社伝によれば、「神武天皇が熊野灘から那智の海岸「にしきうら」に御上陸した時、那智の山に光が輝くのをみて、
	この大瀧をさぐりあてて神としてまつり、その守護のもと、八咫烏の導きによって無事大和へはいった。」とされているそうだが、
	この壮大な滝を見れば、神武天皇東征以前から熊野地方に住んでいた住民達も既に神として崇めていたはずである。自然崇拝が起
	源となって、後世の神武天皇譚や役小角の修験道信仰へ繋がっていくのだろう。いわゆる神仏習合の信仰の後、「蟻の熊野詣」と
	いわれる時代を迎えるが、皇室の尊崇は厚く、延喜7年(907)の宇多上皇の御幸に始まり、後白河法皇は34回、後鳥羽上皇は2
	9回も参詣の旅を重ね、花山法皇は千日(3年間)の瀧籠りをしたと記録されている。








	熊野速玉大社・熊野本宮大社とともに熊野三山と呼ばれ、古来より多くの人々の信仰を集めた熊野那智大社は、那智山青岸渡寺と
	ともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、今なお多くの参詣者が訪れる。473段の石段を登り、標高約500mに位置する社
	殿は6棟からなり夫須美神(ふすみのかみ:伊弉冉尊(いざなみのみこと))を主神として以下のような神々を祀っている。

	祭神 
	第一殿滝宮 大穴牟遅神、
	第二殿証誠殿 家津美御子神、
	第三殿中御前 御子速玉大神、
	第四殿西御前 熊野夫須美大神(伊弉冉尊)、
	第五殿若宮 天照大神
	第六殿 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命、天迩岐志國迩岐志天津日高日子番能迩迩藝命、天津日高日子穗穗手見命、
	    天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、國狹槌尊、宇比地迩神、意富斗能地神、淤母陀琉神 
	配祀神 國常立神、伊邪那岐神、黄泉事解男神、豐雲野神、樟霊神 ほか 

 



 


	現在の位置に社殿が創建されたのは仁徳天皇の御世と言い、その後、平重盛が造営奉行となって装いを改め、やがて、織田信長の
	焼討に遭ったのを豊臣秀吉が再興し、徳川時代に入ってからは、将軍吉宗の力で享保の大改修が行われている。本殿は国の重要文
	化財に指定されている。境内には、神武天皇東征の道案内をした八咫烏が石に姿を変えたという烏石の他、白河上皇お手植えの枝
	垂れ桜や平重盛が植えたという樟の木(樹齢約850年)が大きく茂り、毎年7月14日に行われる「那智の火祭」と呼ばれる例
	祭は有名である。



 

イソヒヨドリは海岸べりや水辺に住む鳥だが、熊野地方にも多い。大社の休憩所の屋根で鳴くイソヒヨ。



三重の塔に登って那智の滝を見る。デジカメが小さいと金網の中に手を突っ込んで写せる。

 





鯨の町 −大地町−


	鯨の町として知られる太地町は、吉野熊野国立公園の中央に位置し、雄大な熊野灘を望み、黒潮あらう風光明媚な海岸線を持つ。
	日本の古式捕鯨発祥の地で、江戸時代の初期から捕鯨が盛んに行われ、今もなおその伝統が受け継がれているが、捕鯨の全面禁止
	以後は、マグロ漁業の他、鯨の町としての伝統を守りながら、新たな町作りに取り組んでいる。 

 
	太地の歴史は古く孝謙天皇の天平勝宝6年(756)遣唐使・吉備真備が帰朝の際、「牟漏崎(現在の太地町燈明崎)に漂着した」と
	の記述が続日本紀に見える。孝徳天皇の大化2年(646)に太地は、木(紀)の国牟婁郡神戸郷に属し、その後、熊野三山を統轄す
	る熊野別当が勢力をもつにいたって那智荘に、また元和5年(1619)、奥熊野の大半を領有した新宮藩水野氏の治下に属した。
	太地は古式捕鯨発祥の地として有名で、江戸時代、当地の豪族、和田家一族の忠兵衛頼元が尾張師崎の漁師・伝次と泉州堺の浪人
	伊右衛門とともに捕鯨技術の研究を進め、慶長11年太地浦を基地として、本格的に突捕り法による捕鯨を始めたとされている。
	その後、延宝3年和田頼治が網取り法を考案したことによって太地の捕鯨は飛躍的に発展した。紀州藩の保護もあって、捕鯨の太
	地は天下にその名をとどろかせ、熊野灘の捕鯨は最盛期を迎えた。しかし、明治に入って西洋式捕鯨法が導入され、近海への鯨の
	回遊も減少するにつれ太地捕鯨は次第に衰退しはじめたが、「くじらの町」としての在り方はその後も変わらず、古式捕鯨の伝統
	を受け継ぎながら近海での小型捕鯨が続けられていいる。
	明治21年の村制実施に伴い、明治22年4月1日太地村と森浦村の両村を合併して太地村と称し、大正14年4月1日より町政
	が施行され太地町として今日に至っている。途中に落合博満記念館があった。

 


	【くじらの博物館 】

	世界一のスケールを誇る太地くじらの博物館には、クジラの生態に関する資料や捕鯨資料1000点に及ぶ貴重な資料が展示され
	ている。巨大な鯨の模型や骨格標本、鮮やかな古式捕鯨船などを目の当たりにしながら、わが国捕鯨発祥の地としての、約400
	年の捕鯨の歴史を見ることが出来る。また、館内の池では、鯨やオルカ達のショーも行われており、ラッコ館やマリナリウム(水
	族館)もある。

 


	----------------------------------------------------------------------------------------------
	■太地鯨方遭難事故
	明治11年12月24日、太地鯨方は久々の大物鯨の出現に鯨方総出で捕獲作業を開始した。捕獲をしたものの
	大物故なかなか仕留めることができず、時間だけが過ぎていきます。折り悪く海上は大シケとなり取り付
	いた小舟が次々と転覆、海中へと消えていく中、不漁続きであったのも重なり、鯨に打ち込んだ元綱を切
	った時には、ほぼ全滅の状態であった。多くの鯨方を失った太地鯨方は大打撃を受け、網取式捕鯨は衰退
	していきました。(くじらの博物館資料より) 
	----------------------------------------------------------------------------------------------



 


	【捕鯨船資料館 】

	「捕鯨船資料館」は、昭和52年6月まで実際に南氷洋捕鯨で活躍したキャッチボート・第11京丸ををそのまま捕鯨資料館とし
	て公開しているもので、雄大な南極海で活躍した捕鯨船は、長らく南氷洋や北洋での捕鯨に従事していたが、捕鯨事業の縮小に伴
	い引退し、昭和54年から、捕鯨船の内部や役割・機能を知ってもらうための資料館として陸揚げされ展示されている。古式捕鯨
	の資料なども展示されている。

 

 

 


	紀伊半島の南端にある「国民宿舎白鯨」で、鯨料理を堪能する事ができる。2,3年前、我々夫婦と東江さん、服部さんで一度、
	この料理だけを食べに、わざわざ大阪から4時間かけてここへ来たことがある。その話をしたら、河原さんも是非食べたいと言う
	ので、再度訪問した。おのみ(尾の肉)の刺身や、はりはり鍋、うねす(顎肉)、さえずり(舌)など、鯨のフルコースだが、竜
	田揚げが別料金なのは相変わらずだった。懐かしくてどうしても食べたい連中が多いからだろうと思う。それに3、500円の料
	金も、4,000円に値上がりしていた。

	問合せ・予約  大地町営国民宿舎白鯨 〒649-5171 和歌山県東牟婁郡太地町大字太地2973-4 Tel.:0735-59-2323 

 










	本州最南端の町串本にある、名勝「橋杭岩」は荒波と潮風が作り出した、大自然の造形美である。弘法大師と天の邪気が橋架け競
	争をして未完に終わったという伝説がある。今まで2,3回ここをとおるたびに見ていたが、今日は引き潮で、橋杭付近まで歩い
	ていける。子供達が走り回っているが、満ち潮の時は、ほんとに巨大な橋の杭のように見える。奇岩が天に向かって立ち並んでい
	る姿は絶景である。串本の海岸から大島に向かって大小約40の奇岩が、約850mもの長さでそそり立っている。






	地殻変動で、第3紀層の頁岩(ケツガン)の亀裂から、石英祖面岩が噴出し、岩脈の柔らかい部分が波に浸食されて出来たものと
	言う。 「一つ二つと、橋杭立てて、心届けよ、串本へ」、「アラヨイショ、ヨーイショ」と串本節にも歌われている。

 




	【橋杭岩にまつわるお話】 橋杭の立巖

	昔々、弘法大師と天の邪鬼(あまのじゃく)が熊野地方を旅したときのことである。
	天の邪鬼は弘法大師と話をしているうちに次第に大師の偉大さに圧迫されるように感じた。我こそは世界一の知恵者で
	あると自負している天の邪鬼は、何とかして弘法大師の鼻をあかしてやりたいものと考えた末、妙案が浮かんだ。
	「弘法さん、大島はご覧の通り海中の離れ島で、天気の悪い日には串本との交通が絶え島の人は大変困るそうですが、
	我々はひとつ大島と陸地との間に橋を架けてやろうじゃありませんか。」と誘いをかけた。
	「それが良い、それが良い。」と弘法大師も早速賛成した。
	「ところで二人いっぺんに仕事するのもおもしろくない。一晩と時間を限って架けくらべをしましょう。」と天の邪鬼
	は言った。いかに偉い弘法大師でも、まさか一夜で架けることはできまい。今にきっと鼻をあかしてやることができる
	と天の邪鬼は内心喜んでいた。
	いよいよ日が暮れて弘法大師が橋を架けることになった。一体どうして架けるのだろうと、天の邪鬼はそっと草むらの
	中から窺っていると、弘法大師は山から何万貫あるか分からない巨岩をひょいと担いできて、ひょいと海中に立ててい
	る。2,3時間のうちに早くも橋杭はずらりと並んだ。天の邪鬼はこの様子を見て、「大変だ! 大変だ! この調子で
	いくと夜明けまでには立派な橋ができあがる。」とびっくりして、何か邪魔する方法はないかと考えた末、
	「コケコッコー」と大声で鶏の鳴き真似をした。すると弘法大師は、「おやもう夜が明けたのか?」と自分の耳を疑っ
	て聞き耳を立てていると「コケコッコー」やはり鶏の鳴き声がする。
	弘法大師は本当に夜が明けたのだと思ってついに仕事を中止した。そのときの橋杭の巨岩が今に尚残っており、列巖の
	起点には弘法大師の小宇を祀っている。

	*** 昭和44年/串本町公民館発行 「串本町民話伝説集」より ***




その幻想的な光景の故に、各地から夜明け、夕焼け、月光浴とシャッターチャンスを狙ってカメラマン達が訪れる。







潮の岬灯台

	【潮岬(しおのみさき)灯台】
	集落を抜けると岬の突端に休憩所と広い駐車場があったが、到着したのがもう夕方で、休憩所も閉まり、料金徴収のおじさんも料
	金徴収に寄ってこないので、勝手に車を止めて木々のアーチをくぐって行くと、ほどなく真っ白な灯台が見えてきた。灯台の料金
	口も既にシャッターが閉まっていた。資料館のオバさんはまだいたが、帰る寸前だったと見えて、「早く、早く」と大急ぎで見学
	させてくれた。灯台下が資料館になっている。ここにもイソヒヨがいた。

 

灯台の隣に立つ大きなアンテナ。

 



 




	灯台の建造物の高さは23mだが、灯台の灯火中心は、平均水面上49m、地上20mとなる。灯塔に昇ると、眼前に、遠い水平
	線が丸みを帯び、空と一体になっている。自殺の名所という三段崖を遠くに臨み、灯台を取り囲む森林と、岬の先端近くに広がる
	芝生の草原は、美しい海岸の光景を造り出している。ここから見ると、まさしく地球が丸いと実感でき、夕日が沈む姿は絶景だ。
		
	 ・所在地 和歌山県西牟婁郡串本町潮岬
	        N   33° 26′ 03″
	         E  135° 45′ 26″
	 ・初点燈 明治6年9月15日
	 ・光度   130万カンデラ
	 ・光達  19海里(約35km)







上の写真の突端部分が、自殺の名所という三段崖。真下に見えるのは灯台の資料館(下)。



 







 


	紀伊半島南端で本州最南端に位置する潮岬は、断崖の高さ50mで、太平洋に突き出た岬である。潮岬を形づくる陸繋島が細くびれ
	て、串本町とつながっている。潮岬灯台は、慶応2年(1866)、江戸幕府がイギリス・フランス・オランダ・アメリカの4カ国と
	締結した「江戸条約」で建設が決められた8灯台(観音埼・神子元島・樫野埼・剱埼・野島埼・潮岬・伊王島・佐多岬)の一つであ
	る。最初の灯台は、リチャード・ヘンリー・ブラントンが設計・指導して明治2年(1869)4月に着工、翌年の6月10日に完成
	した。仮点灯で業務を開始した日本最初の洋式木造灯台で、その後、明治6年(1873)9月15日に正式点灯、明治11年(1878)
	年4月15日に、現在の石造りの灯台に改築された。現在の灯塔は二代目で、隣町の古座町の砂岩を使用したもので明治期の貴重
	な灯台の一つである。100年以上も沖を行く船の安全を守り続けてきた。

 






	【エルトゥ−ルル号遭難事件】

	日露戦争をさらに遡る明治二十三年の出来事。軍艦エルトゥ−ルル号は、1887年に皇族がオスマン帝国(現トルコ)を訪問したの
	を受け、1890年6月、初のトルコ使節団を乗せ、横浜港に入港した。三ヵ月後、両国の友好を深めたあと、エルトゥ−ルル号は日本
	を離れたが、台風に遭い和歌山県の串本沖で沈没してしまった。悲劇ではあったが、この事故は日本との民間レべルの友好関係の
	始まりでもあった。この時、乗組員中600人近くが死亡した。しかし、約70人は地元民に救助された。当時、通信機関も救助
	機関もない離島のこととて、救助は至難を極めたという。怒涛に揉まれ、岩礁にさいなまれ、瀕死のトルコ人達に対して、大島村
	民は村長沖周の指揮のもと、人肌で温め精魂の限りを尽くして救助に当たった。さらには非常事態に備えて貯えていた甘藷や鶏な
	どの食糧の一切を提供して、彼らの生命の回復に努めたのである。手厚い看護を受け、70名はその後日本の船で無事トルコに帰
	国している。当時日本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ、遭難現場付近の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊
	碑が建てられた。エルトゥ−ルル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、多くのトルコの子供達がこの事件を学校で学んだ。
	当時トルコでは、知らない者はいないほど重要な出来事だった。この遭難に際して、台風直撃を受けながらも約70人のトルコ人
	を救助した地元民とは、和歌山県沖に浮かぶ大島の村民である。言葉は通じないけれど、1890年にすでに日本の国民は、たとえ一
	地方の村民でさえ、いざというときには人間愛を発揮したのである。そこに困っている人たちがいる、遭難している人たちがいる。
	助けない理屈は何もない。この無償の行為には強く心を打たれる。いまでもトルコに親日家が多いのは、この事件のせいもあると、
	かってトルコ大使をつとめた遠山氏も語っている。

 















潮岬神社


	灯台の上から見ると、真下に潮岬神社の屋根が写っている。灯台のわきの小道を歩いて「潮御崎神社」へは4,5分だ。灯台入り
	口の前を右に折れて、少し下って行くと鳥居が見える。南国らしくこんもり茂った森の中を通って石段を登ると、銅版葺きの立派
	な社がある。境内はさほど広くなく、まわりはしっかりとした石垣で囲まれている。石垣だけ見ると城壁のようだ。岬の突端には
	よく神社があるが、「潮御崎神社」は祭神が少彦名命である。少彦名命は医薬の道を始めた神として有名だが、海外発展の神とし
	て海外への渡航者、海運業者、漁業関係者に特に広く祈願されてきた。又、鳥虫害を除く法を始めた神として農業関係者の崇敬も
	集めている。医薬業界の会社が密集する、大阪市東区の道修町(どしょうまち)にある神名(じんみょう)さんも、祭神は少彦名
	命である。元禄十年の「由緒」によれば、「神功皇后の御時、坂、忍熊の二王の不軌を計るに遭い給うたので皇后は武内大臣をし
	て皇子(応神天皇)を奉じて紀伊に赴かしめ、大水門浦に御船を寄せさせ給せ、住吉の大神を祭られた。」と云われている。

 

 


	御製歌 「花山法皇」 「此処にます 神に手向の幣帛なれや 潮の御崎に寄する白波」 
		「白河天皇」 「あなうれし 難波の宮のこと問はん 潮の御崎の御綱柏に」

 


	鳥居の先右手に、深緑色をした小さな池がある。地元ではこの池には、赤ん坊を抱いた白い着物の女が立っていたとか、赤ん坊の
	泣き声がするとかいう怪談話がある事で有名らしい。行く前に知らないでよかった。




	【潮岬神社】 熊野御崎神社 御崎大明神 御崎観音 水崎明神
	祭神 : 少名彦名命
	由緒 : 第12代景行天皇28年、潮岬は字御崎の地にある「静之窟」へ少彦名命を始めて勧請した。潮御崎神社の創始である。
		 その後静之窟より静之峯へ遷座され、後貞観12年 (871)5月潮見の端へ遷座したが、この潮見の端なる地は明治2
		 年に至りて潮岬灯台建設のため徴せられ再び旧地静之峯へ遷座し、明治31年6月社殿を改築して 今日に至る。
	式内社 旧郷社 紀伊國牟婁郡 海神社3座 底筒男命,中筒男命,表筒男命

 


	日本書紀神代記に、「大国主命と少彦名命と力を合せ心を一にして中津国を経営して後、少彦名命行きて熊野の御崎に至りて遂に
	常世国に適でましぬ。」とあり、少彦名命が熊野御崎より常世国に渡ったと云う神話にちなんで、御崎の静之窟に勧請し祭祀を始
	めたとされる。又、古事記・日本書紀に、「16代仁徳天皇30年秋9月11日、大后盤之媛が豊楽(宮中での御酒宴)を催さん
	として紀国に遊び、熊野の御崎に至り、そこの綱柏(びゃくしん)を採って帰った。」とある。御綱柏の木と伝承されて来た木が
	今も静之窟の近くに自生している。質素な拝殿の後方に、南向き・権現造の本殿がある。境内からは弥生式土器なども出土してい
	るそうで、近くには笠島遺蹟がある。

 

拝殿脇に、綱柏(柏槙:びゃくしん)の木がある。とても仁徳の時代から受け継がれてきたとは思えない。

 


	熊野は「常世の国」だといわれる。大国主命(大己貴命)が兄たちから逃れて来た常世とは、この熊野の事だと言われている。
	「日本書紀」に、少彦名命が大国主命と国づくりした後、「行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世の郷にいでましぬ」とあり、熊
	野と出雲の間の交流を示唆している。熊野の御碕とは現在の潮岬のことだろうとされる。実際、潮岬の先端にある潮崎神社では、
	少彦名命を祀っているし、また、同じく「日本書紀」に、神武天皇が熊野への上陸にあたり、海上が荒れたため、	三毛入沼命は
	「浪秀を踏みて常世の郷に往でましぬ」とあることからも、熊野は常世の国に近い入口とみなされていたようで、やがて熊野地方
	そのもが常世の国と考えられるようになったもののようだ。


	紀伊半島は一応近畿地方に含まれるので、大阪から簡単に日帰りでパッといけそうだが、道程のほとんどが一般道を走るルートな
	ので、距離にすれば大阪から200kmほどなのに、5〜6時間もかかってしまうという結構遠い地方である。しかし、それだけかかって
	も、ここにはまた来たいと思わせる魅力がある。特に歴史好きには、何か解明しなければならない古代史上の重要な事柄が、あち
	こちに潜んでいるような気にさせる土地である。歴史深い土地とは、この熊野のような場所を言うのだろう。




邪馬台国大研究・ホームページ / 歴史倶楽部 / 那智の滝、再び