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淳和天皇火葬塚




		第53代 淳和(じゅんな)天皇
		別名: 大伴(おおとも)・西院帝・日本根子天高譲弥遠尊(やまとねこあめたかゆずるいやとお)
		父:  桓武天皇・第3皇子
		母:  藤原旅子(藤原百川の娘)
		生没年:延暦5年(786)〜 承和7年(840)55才
		在位: 弘仁14年(823)〜天長10年(833)
		皇后: 正子内親王(まさこ)
		皇妃: 緒継女王、永原氏、橘氏子、大中臣安子、大野鷹子、橘船子、清原春子
		皇子女: 恒世親王、恒貞親王、基貞親王、恒統親王、皇子某、皇子某、良貞親王、氏子内親王、有子内親王、
			貞子内親王、寛子内親王、崇子内親王、同子内親王、明子内親王、忠子  
		皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
		御陵: 大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ:京都府京都市右京区大原野南春日町)



		車塚住宅前のバス停を左へ入った住宅街の中に、淳和天皇の火葬塚(向日市物集女町)がある。『日本紀略』によると、承和7年
		(840)淳和天皇は淳和院において55歳で崩じ、火葬が「山城国乙訓郡物集村」で行われたとある。天皇は死に臨んで、葬儀を簡
		略にすること、また、自分が死後鬼となって災いを招かぬよう骨を砕き、粉々にして山中に撒くよう遺言した。遺詔に従って骨は
		砕かれ、大原野西嶺上(現在の小塩山:宮内庁が比定する大原野西嶺上御陵がある。)に散骨された。火葬された場所には、空堀
		を巡らせた方墳が築かれ、それがこの火葬墓とされているが勿論断定はできない。

 


		第53代淳和天皇(大伴皇子)は、桓武天皇と藤原旅子の子で、786年誕生し、840年に崩御した。在位期間10年。兄の嵯峨天皇の
		後を継いで皇位を継承し、嵯峨天皇第1皇子の仁明天皇に譲位した。在位中は、諸処の政治改革を行うとともに「日本後紀」の編
		纂、「令義解」の作成を行った。

 

 


		宮内庁が比定する現在の淳和天皇御陵は、標高642メートルの小塩山の山頂にある。現状は長径52メートル・短径39メートルの楕円
		形の墳丘だが、これは幕末の陵墓改修で整造されたもので、元々は小石を積み重ねられた塚が並んでいただけのようである。「経
		塚原」「経塚」「清塚」などと呼ばれる場所であったことから、経塚であったとも考えられる。しかし、小塩山一帯で散骨された
		のは事実らしい。近くの物集女車塚古墳は、淳和天皇の柩車を納めたところであるという伝承があり、古くは、物集女車塚古墳と
		この火葬塚が淳和天皇陵の比定地だった。  
 

		山麓の大原野神社付近(京都市右京区大原野南春日町)から見た小塩山。アンテナの立ち並ぶ山頂に、宮内庁が比定した(作った?)
		淳和天皇陵がある。(「天皇陵めぐり」の淳和天皇陵を参照されたし。)





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