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水無瀬神宮 大阪府三島郡島本町広瀬



櫻井駅跡から水無瀬神宮を目指して歩いていた時、民家の軒先にあった大木。楠木ではないようだった。



		後鳥羽(ごとば)天皇 別名:尊成(たかひら)・隠岐院・顕徳院・良然・金剛理
		誕生: 治承4年(1180)7月14日
		在位: 寿永2年(1183)〜建久9年(1198)
		崩御: 延応元年(1239)2月22日(60才)  
		時代: 鎌倉時代
		父:  高倉天皇 
		母:  藤原(坊門)殖子
		宮居:  平安京(へいあんきょう)
		御陵: 大原陵(おおはらののみささぎ) 


		土御門(つちみかど)天皇 別名:為仁・阿波院・行源

		誕生: 建久6年(1195)12月2日
		立太子: ―
		即位: 建久9年(1198)1月11日
		崩御: 寛喜3年(1231)10月11日(37歳)  
		在位期間:  建久9年(1198)1月11日 〜 承元4(1210)年11月25日
		時代: 鎌倉時代
		父:  後鳥羽天皇 
		母:  源在子(中納言源通親(みちちか)の娘)
		宮居:  平安京(へいあんきょう)
		御陵: 金原陵 (かねがはらのみささぎ) 
		京都府長岡京市金ケ原 阪急電車「長岡京市」から徒歩40分
		火葬塚が徳島県鳴門市大麻町にあり。

		順徳(じゅんとく)天皇 別名:守成(もりなり)・佐渡院
		誕生: 建久8年(1197)9月10日
		在位: 承元4年(1210)〜 承久3年(1221)
		崩御: 仁治3年(1242)9月16日(46才)  
		時代: 鎌倉時代
		父:  後鳥羽天皇 
		母:  藤原重子
		宮居:  平安京(へいあんきょう)
		御陵: 大原陵(おおはらののみささぎ) 

 


		水無瀬神宮の祭神は「後鳥羽天皇」、「土御門天皇」、「順徳天皇」親子である。承久の乱で敗れた後鳥羽上皇の霊を弔うため、生前
		愛した「水無瀬離宮」の跡に建てられた御影堂がはじまりと伝えられる。境内には、日本名水百選にも選ばれた「離宮の水」が湧きで
		ており、この日も近在の人たちが、大きなポリタンクを持って汲みに来ていた。大阪府下では唯一の名水百選(環境庁選定)である。

		当神宮には、藤原信実によるといわれる国宝の後鳥羽天皇像をはじめ、数多くの絵画・文書類が所蔵されており、建造物では、豊臣秀
		吉が家臣福島正則に造営を命じ寄進した客殿や、後水尾天皇が愛好した茶室が重要文化財に指定されている。




		壇ノ浦で安徳天皇が没すると同時に、第82代後鳥羽天皇が正式に誕生した。頼朝は全国統一を成し遂げたが、今度は京都の義経との
		対立が表面化した、義経は、後鳥羽院を脅し頼朝追討の院宣を発給したが、兵力徴集に失敗し、西国へ逃走した。頼朝は上皇に迫り、
		守護・地頭の設置を認めさせ、建久3年(1192)、鎌倉幕府が成立した。同時に後白河上皇崩じて後鳥羽天皇の親政となったが、6年
		後の建久9年(1198)、後鳥羽天皇は長子為仁(ためひと:土御門天皇)に譲位し、18才で上皇となった帝はその後も生涯一貫して、
		鎌倉幕府の倒幕を推進した。

		土御門天皇は承元4年、弟の守成(順徳天皇)に譲位する、「承久の乱」は後鳥羽上皇と、この順徳天皇の共同謀議で引き起こされた。
		「承久討幕の議」(承久の乱:1221承久3年)は、後鳥羽上皇と順徳天皇の共同謀議であり、土御門上皇は関与していなかったが、父
		や弟が流刑される中、一人都にとどまるのを潔しとせず、幕府に申し入れて自ら土佐へ流刑と言う形をとった。その後幕府により、
		「少しでも都に近い方へ」という配慮で阿波へ転出するが、没するまでここですごす事になった。今も阿波には火葬墓が残っている。

		順徳天皇も、父後鳥羽上皇とともに積極的に倒幕を推進した。佐渡へ流されたのち、20数年をこの地で過ごしたが、父崩御の知らせ
		を受け、断食の結果46才で崩御した。火葬墓が佐渡にある。
		父の後鳥羽院も隠岐に火葬墓があり、謀議には加わっていなかった土御門帝も、自ら望んで流された阿波の鳴門に火葬墓がある。
		この親子3人はいずれも都から離れた地で葬られたのである。

 

		上右「離宮の水」は、後鳥羽上皇の離宮での日常生活にも用いられ、御影堂建立後は、 神聖な水として神餞にのみ用いられていたが、
		茶道の興隆とともに茶の湯としても利用され、「離宮の水」と呼ばれるようになり、現在でも茶道や書道に利用されている。天王山
		山麓からの水無瀬川は、里内ではほとんどが地下水となっていて、「離宮の水」もその水無瀬川の水である。


	承久の乱

	後鳥羽上皇は、度重なる熊野詣や寺社造営に乱費を繰り返して財政を圧迫し、専制指向を強めていたが、将軍源実朝が緩衝勢力となって
	幕府との全面対立には至っていなかった。しかし実朝が甥の公暁(くぎょう)に鎌倉で暗殺されると、後鳥羽は幕府との協調に意欲を失い、
	急速に幕府との関係は悪化していく。上皇は反幕府勢力を引き寄せ、幕府の宮将軍東下(鎌倉詣)要請も蹴ってしまう。息子の順徳天皇も
	反鎌倉で父後鳥羽と決起することを決め、承久3年4月、嫡男懐成(かねなり:85代仲恭天皇)に譲位してしまう。そして5月15日後鳥羽
	上皇は京都守護職を滅ぼし、ここに「承久の乱」が開始された。
	結果は後鳥羽上皇側の大敗で、参謀の宮廷臣下達は処刑され、後鳥羽は隠岐へ、順徳は佐渡へ、その他の重臣も但馬・備前などへ流刑
	となった。




		水無瀬神宮のある広瀬(ひろせ)地域は、平安時代は「水無瀬野」と呼ばれ、朝廷の狩場・別荘地だった。文徳(もんとく)天皇の
		皇子・惟喬(これたか)親王の別荘地があり、その後、後鳥羽上皇がここに離宮を造営した。承久の乱後、幕府は仲恭(ちゅうきょ
		う)天皇を廃し後堀河天皇を立てた。後鳥羽上皇は流された隠岐で延応元年(1239)没したが、翌年の仁治元年(1240)、上
		皇に仕えていた水無瀬信成・親成父子が、上皇の御影堂を設けたのが水無瀬神宮の始まりとされる。その後、上皇の怨霊を恐れた幕
		府や南北両朝の崇敬が厚く、社領の寄進が相次ぎ、社運が栄え、明治6年(1973)にこの水無瀬御影堂を中心として水無瀬宮となっ
		た。明治10年太政官布告により、土御門・順徳天皇が合祀された。

		・水無瀬神宮の客殿・茶室(国指定重要文化財)
		・水無瀬神宮の紙本著色後鳥羽天皇像(国宝)
		・水無瀬神宮の後鳥羽院御置案文(国指定重要文化財)




		島本町は域内を旧西国街道が通っており、大阪府の最北東端に位置している。隣は京都府大山崎町で、羽柴秀吉と明智光秀が戦った
		古戦場の天王山があり、天王山とポンポン山を結ぶ線が、大阪府と京都府の境になっている。淀川をはさんで南側には、我が家族が
		7年間を過ごした石清水八幡宮のある男山が見えている。

 


		水無瀬川は、淀川の支流で天王山を水源とする。島本町内の水道水として広く配水されている地下水も、水無瀬川の伏流水であり、
		その水源は同じである。これから訪れるサントリー山崎蒸溜所も、その天王山からの地下水をウイスキーに使用している。 

		見渡せば山もとかすむ水無川ゆふべは秋となに思ひけん、茅葺きの廊、はるばると艶にをかしうせさせたまへり。「増鏡」



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