Music:  Revolution  
明日の日本を見つめて 若者たちは燃えた!

明 治 維 新

2000.11.19 歴史倶楽部第41回例会




		泰平の眠りをさます黒船来航 − 

		嘉永6年(1853)6月ペリー率いるアメリカ艦隊4隻の浦賀沖出現、これが明治維新の始まりであった。
		「今から夜船で参ります。心はなはだ急ぎ飛ぶようです。」たまたま江戸にいてさっそく浦賀に駆けつけた
		吉田松陰(当時24歳)は、こんな書状を藩邸に寄せ、坂本龍馬(当時19歳)も「黒船来たる!」と興奮した
		文面で故郷の父に知らせている。

		開国か嬢夷か − 日本中が騒然となった。その背景には欧米列強による日本侵略への強い危惧があったの
		である。が、幕府は艦砲によるペリ−の示威に屈し、翌年、日米和親条約を結び、ついで英・露とも同条約
		を結ぶ。さらに三年後には不平等条約の禍恨を残した日米通商条約についで、蘭・露・英・仏とも同条約を
		締結した。この勅許なき急速な開国が、安政の大獄を生み、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変へとつ
		ながり、勤王・佐幕の対立をいっそう尖鋭化し、激化させた。
		その後に起きる寺田屋事件、生麦事件、薩英戦争、8・18政変、池田屋事件、禁門の変、英・仏・米・蘭
		四力同連合艦隊による下関攻撃、第二次幕長戦と動乱をくり返しつつ、ついに慶応3年(1867)大政が奉還
		され、王政復古が国の内外に宣言される。ペリー釆航からわずか14年、まさに疾風怒濤の時代であった。

		鎖国日本から世界の中の日本へ、近世から近代へ。政治・経済・文化のすべてが大きく転換しょうとする日
		本の夜明けであった。





京都・伏見
何人か行った事がないと言うので、まず寺田屋へ



 


		寺田屋事件
		 文久2(1862)年4月23日,京都近郊の伏見の寺田屋で,薩摩藩尊攘派志士が殺害された事件。
		当時上洛中の島津久光の意図は雄藩連合・公武合体にあったが,藩士有馬新七らはこれを機に挙兵討幕を企
		て,関白九条尚忠,京都所司代酒井忠義の殺害を計画して寺田屋に集結した。これを知った久光は鎮撫のた
		め,奈良原喜三郎ら9人を派遣したところ両者は乱闘に及び,有馬ら6人は倒れた。この乱闘は討つ者も討
		たれる者も同じ薩摩藩士であった。なお,若年の大山巌,三島通庸,西郷従道,篠原国幹など後の治の勲も
		参加していた。

		【「維新は寺田屋の一室から生まれたり」と言われるように、寺田屋は明治維新のメインステージとなった
		ところです。文久2年(1862)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名。また、
		ここは坂本龍馬の定宿で、おりょうさんとの恋の宿としても知られています。「寺田屋」と書かれた軒提灯
		を吊るす昔ながらの船宿風情で、現在でも泊ることができます。屋内には龍馬の部屋もそのまま残っており、
		柱には刀傷も保存されています。また、庭の前には寺田屋騒動で散った薩摩九烈士の碑や坂本龍馬の銅像な
		どが建っています。 (寺田屋の案内パンフより)】



 

上左が、薩摩九烈士の碑。

寺田屋は今でも予約すれば泊まることが出来る。

 

 

 

 

下の風呂に入っていたおりょうが上の階段を裸で駆け登った。

 

この人相書き手配書は私の田舎の郷土館(筑前秋月藩)にも あったから、ほんとに全国指名手配だったんだ。

 

 

中岡慎太郎はどの絵を見てもゴツい顔をしとる。

 

竜馬のポスタ−はデカイのが1,500円だった。





		勤王の志士たちの活躍が維新史の光の部分なら、その影の部分を受け持ったのが新選組である。
		最盛期には300余人もの隊士数を誇るようになった新選組が一躍、名をあげるきっかけとなったのが京都・
		三条小橋西の小さな旅宿を襲った、いわゆる池田屋事件である。
		元治元年(1864)6月5日の夜、尊攘派の志士20数人が集まり、密議をこらしているところへ局長・近藤
		勇に率いられた沖田総司ら6人が斬込み、2時間余の激闘の末に宮部鼎蔵ら数人を斬投、数人を捕縛。以後、
		壬生浪(みぶろ)と呼ばれ、京都の人びとを震撼させていく。しかし、彼らは単なる人斬り集団だったわけ
		ではない。京都守護職・松平容保支配下の役人として世情不安定な京都の治安を必死で守ろうとした警察グ
		ループであった。

		一大変革期の揺れ動く世にあって、集まってきた彼らもまた志士と同じく、胸に熱い血をたぎらせた多感な
		若者たちであった。
		やがて大政奉還、王政復古となり、明けて慶応4年(明治元年)正月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発。新政政
		軍の砲火の前にもはや刀槍で戦える時代ではなく、歴史の敗者としてそれぞれが無残な結末を迎えることに
		なる。同年4月3日、下総流山で近藤勇が投降。4月25日に板橋で斬首、京都三条河原に晒し首となる。
		享年35才。5月30日、沖田結司が江戸で病死。享年25才。翌明治2年5月11日、土方歳三は五稜郭
		を出撃後、銃弾を受けて戦死。享年35才。同18日、五稜郭降伏。

		池田屋事件からわずか4年にも満たない。


黄桜酒造

 

過去のCMを集めたギャラリーやら、試し酒をさせてくれるコーナーもある。

 

こういう人となら人生やり直してもイイかな。叶和貴子色っぽいねぇ。






京都御所





京都・三条 円山公園

   



 



京都・東山 坂本龍馬の墓/霊山護国神社

 

 



下が坂本龍馬と中岡慎太郎の墓

 

 

龍馬は死後正四位を受勲している。知らなかった。下の銅像は円山公園にあるものの縮小版で、揮毫は吉田茂である。




禁門の変殉難者たちの墓



東山・霊山 龍馬の墓から見た京都市街







京都・東山 霊山資料館


			明治天皇のご沙汰書に基づく太政官布告(明治元年5月)によって近代日本の礎となった
			維新の先覚者約1,400柱の霊(みたま)が
			ここ東山の霊山(りょうぜん)に祀られました。
			が、戦後は心をかける人もなく、荒れるがままの状態でした。
			これを憂えた故松下幸之助氏(当時松下電器産業会長)の発唱で
			”明治100年”の昭和43年「霊山顕彰会」が創設され
			霊域を整備、復旧するとともに、新たに約1,800柱を合祀
			現在、約3,200柱が霊山祭神として祀られています。
			昭和45年秋には、先覚者たちの資料などを展示する場として
			「霊山歴史館」を設立、開館しました。
			以来、近代日本を切り拓いた先人たちの進取の精神を学んでいただく
			わが国唯一の総合資料館として、動乱の幕末・維新史を紹介しています。
			また、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、吉田松陰
			高杉晋作、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市端山
			徳川慶喜、松平容保、勝海舟ら維新史に登場する人物や
			新撰組関係の資料など約5,000点を収蔵、常設展示するほか
			春・秋には多彩な企画による特別展も開催しています。
			【 霊山歴史館 発行のパンフレットから転載】
 

 

 

 





上 八坂の塔

 



		2008年9月12日号の週間ポストに以下のような記事が載った。その後2,3日、TV・ラジオのnewsになったようだが、
		その後は何の報道もない。今も観光客は、ダマサレタまま歴史観光を続けているのだろう。









 その後の、週刊ポスト報道 



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