Music: And I love her

雨の 松坂城址 2003.3.22 三重県松坂市

		
		JR松坂駅と近鉄松坂駅から徒歩で10〜15分程度のところにあるが、小雨が降っていたのでタクシーに乗ったら、運ちゃんは迷惑そ
		うにしぶしぶ行ってくれた。勿論晴れてたら歩くんだけど、いいじゃん近くでも。客は客だろ。

 



 

石垣沿いに歩いて表門から入った所にあった「松坂城跡」の石碑。

		
		天正12年(1584)、豊臣秀吉によって近江日野6万石から伊勢12万3千石に加増、転封された蒲生氏郷(がもううじさと)は、当初は
		現在の松阪市松ヶ崎町にあった松ヶ島城を居城としていた。松ヶ島城は永禄元年(1558)に、織田信長の次男で伊勢の国司であった北畠具
		教が、織田信長の伊勢侵攻に備えるために築いた城であったが、蒲生氏郷にとって松ヶ島城は交通が不便なうえに、大名の居城としては
		余りにも狭小であった。そこで戦国の智将蒲生氏郷は、天正16年(1588)、四五百森(よいほのもり)の丘陵を利用して新たな新城を
		建設した。松坂城築城にあたっては、領内の寺社を取り壊して、その資材をも転用したという。氏郷は突貫工事の末に完成したこの城を、
		吉祥の木である松と、秀吉の居城大坂城から一字を拝領して「松坂城」と命名した。別名「四五百(よいほ)城」「鶴城」とも言う。独
		立丘に造られた典型的な戦国期の城である。



		
		城は北を大手、南を搦手とし、石垣を積み上げて本丸、二の丸を置き、内堀までの平坦地を三の丸にあて、本丸には三層の天守と敵見櫓、
		金の間櫓など多くの櫓を設けた堅固なものであった。本丸・二の丸・隠居丸・希代丸・出丸には高い石垣を築き、三の丸の外郭に約20
		町に及ぶ内堀を巡らせていた。城の北側を流れる坂内川と南側を流れる愛宕川を外堀とし、城下の道路を曲折させて攻撃に備えた。二の
		丸には華麗な御殿、三の丸の中央には大手門筋が通り、両側に城代屋敷、御鷹部屋、武家屋敷が並んでいた。


		氏郷は城下町の建設にも力を注ぎ、城下町の交通網を整備し、松ヶ島の町民を強制的に移住させるとともに、生まれ故郷である近江日野
		の商人も松坂に移し、楽市楽座の制度を定め、城下の繁栄をはかった。松坂に移住してきた日野商人の中で、江戸へ出て呉服商を営み今
		日の三井財閥の礎を築いた三井高利も、その時の商人の子孫である。
 



本居宣長資料館と旧邸宅「鈴屋」。城跡を見学した後訪問した。

 
		隠居丸跡には江戸時代の国学者である本居宣長の旧宅が移築され、国の特別史跡に指定されている。宣長が医者として、また国学者とし
		て72年の生涯を過ごしたところで、53歳の時、二階を書斎に改造して「鈴屋(すずのや)」と名付けた。隣接して本居宣長記念館が建
		っており、宣長の自筆稿本や宣長愛用の品々が多数展示されている。


 



上と下は、左から続いている。180度撮したつもりだが、相当手ブレしている。



上写真の左端が下の写真。この辺りが本丸跡。狭い。

 

		
		本丸には、桃山様式の三層天守と、敵見・金の間・太鼓・月見・遠見などの櫓をはじめ、諸門を合わせて11の建物があった。城跡には
		現存する建物はないが、石垣が良く残っており、本丸には野面積で築かれた天守台が存在する。石垣は見事である。二の丸跡と上段、下
		段に分かれた本丸跡の高石垣は三重に重なり、複雑に屈折して死角のない防衛線を築いていたことがよくわかる。城跡への登城道は表門
		跡と裏門跡の2ヶ所だが、表門跡から眺める本丸跡の高石垣は見ごたえがある。

 



金の間櫓跡。何をする部屋だったんだろう。男根のような石塔に金の間ねぇ。

 

ここにも碑が立っていたが、裏面はもうかすれて何が書いてあるのか殆ど判読できなかった。



 

		
		天正18年(1590)小田原攻めの軍功によって氏郷は、僅か2年松坂に在城しただけで、会津42万石へ転封した。代って城主となった
		服部一忠は、文禄4年(1595)に関白秀次事件に連座して切腹。同年、古田重勝が近江日野から入封し、元和5年には次当主の重治が石
		見浜田へ転封した。関ヶ原の合戦時に、吉田重勝はこの城で鍋島軍の攻撃をしのいでいる。やがて元和5年(1619)からは松坂領六万石
		は和歌山城主・徳川頼宣の所領となり代官が置かれた。

 

		
		ちなみに氏郷は、文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮出兵に応えて九州へ出兵した際、肥前(佐賀)の名護屋城在陣中に病にかかり、京都の蒲
		生邸で40歳の生涯を閉じた。手柄を立てて出世街道をばく進するという、戦国大名の典型的な例のような人物だが、40歳とはあまり
		に若い。





		
		明暦3年(1657)以後は城代が置かれて明治に至るが、この間、正保元年(1644)に大風により天主が倒壊する。それまで三層の天守と
		金の間・月見櫓・太鼓櫓がそびえ立っていた。更に寛政6年(1794)に二の丸に建てられた紀州御殿(徳川陣屋)が明治10年(1877)
		に不審火により焼失した。以後再建されることなく明治を迎える。 現在は天守台、本丸跡、二の丸の石垣が残っている。 明治14年
		(1881)城跡公園となり、現在城跡は「松阪公園」として市民の憩いの場になっている。



松坂城梅園。まだ梅はしっかり咲いていた。雨にもかかわらず、辺り一帯梅の香りがしていた。

 

西門をでたところの石垣は補修工事中だった。

 
		
		【御城番長屋】
		松坂城を築いた蒲生氏郷は3年後に会津へ42万石で移封された。江戸時代に入り松阪は紀州徳川家の領地となり、松坂城には紀州藩
		の城代が置かれるようになった。御城番屋敷は、松坂城の警備のために移り住んだ紀州藩士とその家族の屋敷で、全国でも珍しい組長
		屋が建ち並ぶ。

 

		
		松阪城跡の西門から出ると、御城番長屋にでる。石畳の両脇に同じ間取りの長屋が並んでいる。時代劇に出てくるような長屋である。
		周囲に垣根をめぐらした約1ha の屋敷に、住宅20戸の主屋2棟と前庭、畑地、土蔵、南龍神社がある。幕末の文久3年(1863)に建
		てられた長屋は、藩主からこの長屋を貰った藩士達により明治11年に「苗秀社」という管理会社が設立され、今もその子孫達が合資
		会社として長屋全体を維持管理し、12戸が借家として現在でも利用されている。明治維新後、政府は士族の生活を保証するため、公
		債の支給、官有地の払い下げを行った。御城番の士族たちはこれらの財産を自分たちで運用するため合資会社を設立したのである。

 

御城番屋敷の家並み。石畳に緑鮮やかな生け垣が見事だ。



 

 

幕末の、武家の生活が彷彿としてくる住まいである。ついこのごろまで、こんな造りの家は日本中にあったような。

 



松阪市は、城に一番近い西棟北端の1戸を借り受け、当時の住宅に復元し一般公開している。





御城番長屋を出たところにあった「松坂神社」。はちまんさん、とおいなりさんが祭神である。



		
		せっかく松阪に来たので、是非松阪牛を食べたいと思ってステーキの店を探した。教えて貰った有名だという店に行ったが、ちょう
		どお昼時で行列ができていたので諦めて別の店に行った。おもてのメニューを見ると、ステーキが一人前1万7千円とか2万円とか
		言うような値段だった。混んでいて助かった。スリランカやアフリカの子供一人が、3千円あれば1ケ月学校へ行けるのを考えた時、
		昼飯1食に2万円払うような社会は、果たしてまともな社会なのだろうかと考えてしまった。しかもそれが混んでいるのだ。

		死んだ牛の肉一切れを食う値段で、スリランカの子供7人が1ケ月学校に行ける。松阪に生まれ、一般庶民と同様に松阪で暮らし、
		そして松阪で死んでいった宣長は一体どう思う事だろう。





邪馬台国大研究ホームページ / 歴史倶楽部 / 松坂城趾