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松山城は小高い山になっている。山に石垣を築きそこに築城したに違いない。
そのため市内からは、リフトで上るようになっている。勿論歩いて登る道もある。






★ 松山城の沿革 ★ (松山城パンフより:松山市観光課97.7作成 以下同じ)
		
	松山城の創設者は加藤嘉明である。嘉明は永禄6年(1563)に三河国永良郷加気村に生まれた。父広明は徳川譜代の武士であったが、嘉明
	が6才の時に美濃国で逝去する。やがて羽柴秀吉に見いだされてその家臣となり、20才の時に賤ケ岳の合戦において七本槍の一人として
	武勲をたてた。その後従五位下左馬介に補せられ、伊予国正木(伊予郡松前町)6万石の城主に封じられ、また文禄(1592)、慶長(1597)
	の役には九鬼・脇坂らの諸将とともに水軍を率いて活躍し、その功によって10万石に加増される。
	慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいては徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった。そこで嘉明は同7年に道後平野
	の中枢部にある勝山に城郭を築くため、普請奉行に足立重信を命じて地割りを行い工事に着手し、翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下
	に移し、初めて松山という地名が公にされた。その後も工事は継続され、24年後寛永4年(1627)になってようやく完成をみた。
	当時の天守閣は五層で偉観を誇った。しかし嘉明は松山にある事25年、寛永4年(1627)に会津へ転封される。
	(何という仕打ち。20年掛かりの一大プロジェクトの終了とともに、プロジェクト・リーダーをはずされ仙台支店長になるようなものだ。
	嘉明がいかに断腸の思いで松山を去ったか、察するにあまりある。)
	
	その後へ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入国し、二の丸の造築を完成したが、寛永11年3月参勤交代の途中、在城7年
	目に京都で病没し、嗣子がないので断絶する。その後寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山藩主15万石に封じられ
	て以来、14代世襲して明治維新に至った。


















<歴代城主家紋>

加藤家(蛇の目)蒲生家(左三つ巴)松平家(徳川葵)久松家(星梅鉢)



天守閣より松山市内を見る。この天守閣は、日本の天守閣の中でも後期に(文政3年:1854)再建されたもので重要文化財。

















 





<明治維新と松山城>
	松山藩は松平家の入部により親藩大名となった。したがって幕末においては幕府側として「禁門の変」や「長州征伐」に参加したた
	め明治維新では朝敵として追訴を受けることになる。
	当時松山藩内においては、朝廷に罪を謝すべしという恭順論者と、薩・長藩と徹底的に戦うべしとする主戦論者が対立したが、藩主
	松平定昭は恭順論を入れ、ここに松山藩は朝廷に対し王命に敵対する心底のないことを明らかにし、新政府側の土佐藩の兵を城下に
	入れ、藩主が常信寺において謹慎することとなった。これにより松山藩の誠意は新政府の認めるところとなり追訴はまぬがれる。
	このため松山城は戦火にさらされることなく、無事その姿をとどめた。その後、廃藩置県により松山城は兵部省の管轄となったが、
	城郭廃止の令により大蔵省の所管となり、やがて大正12年、旧藩主久松定謨氏より松山市に寄贈を受けたものである。





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