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讃岐・丸亀城
2003.12.28 香川県丸亀市




		年末休みを利用して、会社の同僚と出かけた四国の遺跡の旅。香川県の「中の池遺跡」のすぐ側に丸亀城があるのを知って
		寄ってみた。前回、崇徳天皇陵を見に来た時ここを通った際にも、ああ近くにあるなぁとは思っていたが、その時は時間が
		無く寄れなかったのだ。讃岐富士が正面に見える本丸。下から見上げると威風堂々と見え、丸亀市街を一望できる天守閣。
		なかなか立派な城だった。



		今から500年ほど前、丸亀がかつて亀山と呼ばれていた室町時代初期に、讃岐守護職細川氏の家臣で宇多津の聖通寺(し
		ょうつうじ)城主であった奈良元安(ならもとやす)が高さ66mの亀山に築いた砦が丸亀城の起こりという。その後天正
		15年(1587)に讃岐17万3千石で入城した生駒親正(いこまちかまさ)が、高松城に次ぐ西讃岐のおさえとして築城し
		た。これが今日残る丸亀城である。正親は、子の一正とともに7年がかりで慶長2年(1597)に完成させた。その後、徳川
		幕府による元和元年(1615)の「一国一城令」により廃城となったが、石垣に土を盛り、植木を植えるなどのカムフラージ
		ュを施して破壊をまぬがれたという。その後、生駒家はお家騒動を起こし秋田へ転封となる。讃岐の国は、東讃岐12万石
		に松平頼重(まつだいらよりしげ:高松城主)が、西讃岐5万3千石に山崎家治(やまさきいえはる)が入封した。山崎家
		治は、徳川幕府の援助を受けて丸亀城を再建し西讃岐の府としたが、その山崎氏も世継ぎがなく3代で絶えたので、万治元
		年(1658)京極高和(きょうごくたかかず)が入城して、7代212年を経て明治を迎えた。今の天守閣や三日月形の石垣
		は、山崎家治の築いたものである。2代目丸亀城主高豊(たかとよ)は、南にあった大手門を北に移して今のような形の城
		を完成させた。 



 


		城の正面の石橋(ときわ橋)の前に、「亀山公園」と書かれた石柱が建っている。これは大正8年、それまで一般市民は立
		ち入り禁止だった城域が公園になったのを記念して、ときの市長樋口徳太郎が建てたものである。



上と下の写真は右から左へ繋がっている。頭の中でイメージして頂きたい。




		丸亀城は天守閣が現存しており、3層天守・大手門は重要文化財、掘・石塁・長屋・土塀は史跡指定となっている。標高6
		6mの亀山に築かれた平山城で、本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪・山下曲輪があり、東西約540m・南北約460mの内
		掘内204,756平方mが史跡範囲となっている。「石の城」と形容されている名の通り、丸亀城は石垣の名城として有名
		である。天守閣に向けて4段階に積み重ねられた石垣は、「扇の勾配」とも「清正流三日月勾配」とも呼ばれ、天に向かっ
		て弧を描いて反りかえるような見事で、まさに石の芸術品ともいえる美しさを持っている。亀山城、蓬莱城とも言う。香川
		県丸亀市一番町。JR予讃本線丸亀駅下車徒歩15分。




		大手二の門(上)
		城正面の内堀にかかるときわ橋を渡ると「大手二の門」である。この門は江戸時代の初めごろ建てられたもので、高麗門と
		も言われ、屋根の形は切妻(きりつま)造りで本瓦葺きになっている。軒先の瓦には四つ目紋がついており、丸亀城主京極
		家の家紋である。

		大手一の門(下)
		大手二の門を過ぎ枡形を横切ると「大手一の門」がある。この門は、入母屋(いりもや)造りと呼ばれる様式で、屋根は本
		瓦葺き、両端に鯱が乗っている。扉の東側には、下からは見えないが石落としの仕掛けがある。この門は、南と北の両側の
		石垣をまたがらせて建てた多門櫓(たもんやぐら)で、武器庫や、監視櫓にもなる。また銃眼も付いている。




		枡形(ますがた)
		大手二の門と一の門との間は、大きな石垣に囲まれた四角い形の広場になっており、形が枡(ます)に似ているので枡形と
		いわれる。出陣の時武者をここに集めて、おおよその数を測ることが出来るようになっているらしい。また、表から城の中
		が丸見えにならないようにするための広場でもある。丸亀城の枡形は、南北十間(17.5m)、東西十二間(21.7m)と大形で、
		他にはあまり見られない特長である。

 



 

 

 


		扇の勾配(おうぎのこうばい)
		大手一の門を過ぎると急な坂を登る。長くないが急なので結構疲れる。ときどき立ち止まって振り返るので、この坂を「見
		返り坂」というようになった。頭上にそそり立つ石垣は、三日月流扇の勾配ともいい、青空に流れるような美しい線を描い
		ている。

 


		石垣造りの名人羽坂重三郎
		伝承によれば、重三郎は今の琴平町の石屋だったと言われ、小豆でも積み重ねることができるというほど石垣を築くのが上
		手だった。重三郎は、藩主に呼び出されて丸亀城の石垣を築き、喜んだ殿様は「この石垣は,鳥の他に越せるものはいない
		ほど立派なできばえだ。」といってほめ。ところが重三郎は、「はい。だれにも登ることはできません。しかし,私だけは
		二本の棒さえあればわけなく登れます。」と答え、棒を石垣のすき間に突き立てながら、垂直に近い石垣をするするっと登
		って見せた。それを見た殿様は、もし重三郎が敵に教えたら困ると思い、ある日井戸の深さを調べるように命じ、中に降り
		た重三郎の上から大きな石を投げ込んで殺してしまったという。

 



 




		月見櫓跡(つきみやぐらあと)
		見返り坂を登りつめて三の丸の広場に出る。その南東のすみに一段と高い出っ張った場所がある。今は櫓はとりはらわれ、
		礎石(そせき)が残るだけだが、「月見」というだけあって素晴らしい眺望である。遠方に見える山(下)は、讃岐富士と
		呼ばれる飯山。市街地が一望できる。

 


		多門の櫓(たもんのやぐら)
		三の丸にある水飲み場の横を曲がり、かぎ形になっている道の両側に大きな石垣がある。これが二の丸の入口で、昔は多門
		のやぐらと言って、大手一の門と同じように両側の石垣をまたいだ櫓と門があった。二の丸を守るための重要な櫓と門だっ
		た。



 


		<野づら積み石垣>
		自然の石をそのまま積み上げるもので、すき間があり雑に見えるが水はけがよいのでなかなかくずれない。大手一の門の西
		の広場などに見られる。生駒親正が築いたときの石垣だと思われる。

		<打ち込みはぎ石垣>
		石の面をノミを使って平らに組み合わせ、目地(目地・石のすき間)にぐり石を入れて積んである。野づら積み石垣より美
		しく見え、目地の働きで水はけも良いのでめったにくずれない。二の丸の石垣や多門やぐらの石垣などに見られる。

		<切り込みはぎ石垣>
		石をノミでけずり隙間がないように組み合わせて積んであるもので、目地の間にぐり石がない。一つ一つの積み石は大きさ
		や形が整えられて美しく積まれている。石の形は様々だが、一般的なものは「布目(ぬのめ)積み」とか「算木(さんぎ)
		積み」など、長方形や正方形の石を積んでいる。この積み方は、目地にすき間もぐり石もないので、高く積むと積み石同士
		が直接ふれ触れる時に加わる力でくずれやすい。南から三の丸に登るときに見られる。

		<刻印>
		三の丸の石垣の中には、記号のようなものが刻印されている石がある。丸亀城で確認されているものは20種類以上にもな
		る。この城の刻印がどういう目的で刻まれたのかはよく分かっていないが、一般的には、運んだあるいは供出した武将の識
		別や、積み上げる順番を表わしている。

 





 




		【丸亀城天守閣】
		江戸時代初期の建築。天守閣は、当然城の一番高い場所にある。戦時下であればここで戦況を分析し、戦闘の指揮をするの
		だろうが、平和な徳川時代にあっては藩主の権威の誇示に使われた。丸亀城の天守閣は、3重3層の独立天守閣で、他の城
		の天守閣と比較しても大きな方ではない。しかし、大手門から見上げた姿は実に堂々としており、威風堂々という言葉がぴ
		ったりである。遠近感を利用して大きく見せている。かっては、本丸の角には櫓が建ち、周りは白壁の塀が取り囲んでいた
		ので、当時の本丸は今と比べものにならないほど堂々としていた事だろう。昭和25年天守解体修理の際、3層の壁の中か
		ら「万治三年三月」と墨書きした板札が発見された。これによって寛永19年山崎氏着工の築造が、京極氏によって完了し
		たことが判明した。昭和32年3月20日、その板札は重要文化財に指定された。 



 





 

城内の一角は今も発掘調査中(上右)である。



残念なことに天守閣内の資料館は、冬季は休館だそうで閉まっていた。下にあった丸亀歴史資料館も年末で閉館だったし残念。







明石大橋を渡る頃にはすっかり暗くなってしまった。下は暮れていく明石の町である。都合千kmを走ってくれた宮崎君、ありがとう。





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