SOUND:Penny Lane

崇神天皇陵・櫛山古墳
山辺の道を行く−7・8





第10代 崇神天皇陵
黒塚古墳を後にして国道方向へ戻り、10分も歩かないうちに巨大な古墳が見えてくる。


実在した最初の天皇とも、大和朝廷の祖とも言われる崇神(すじん)天皇の陵である。その陵は前期古墳を代表する前方後円墳で全長約240m、山辺の道の勾(まがり)の岡の上にある。 記紀に記されている初国(はつくに)知らしし御真木天皇(みまきすめらみこと)という言葉から、(実在した)最初の天皇だろうとされるのだが、ほんとの所はよくわからない。 実は、すぐ隣の第12代景行(けいぎょう)天皇陵が地元では崇神天皇陵とされていた、という説もある。江戸時代までは、現在の景行陵は王之塚とよばれ、ここが渋谷村であったことから渋谷向山古墳とも呼ばれているが、崇神陵は行燈山(あんどんやま)とよばれて、古くから王之塚が崇神陵だと 伝承されてきた、と言うのだ。
そもそも、古墳時代の天皇陵については、天皇の名と被葬者とが明らかに一致しているのは、京都山科の天智天皇陵、明日香の天武・持統天皇陵、古市の応神天皇陵くらいなのである。応神陵については異論もある。こと程さ様に、古代天皇陵についてはあいまいなものなのだ。 では掘って確かめればいいではないか、とは誰しも考える。しかし宮内庁は現在でも、天皇陵の発掘に関してはこれを一切許可していない。
そういう状況なので、考古学者の中には崇神天皇陵などとは呼ばずに、行燈山古墳と呼ぶ人もいる。


天皇陵とされていたものがそうではなかったからといって、象徴天皇の権威などちっとも揺らぎはしないと思うのだが、宮内庁にももっと考えて欲しいものだ。









いずれが崇神陵や景行陵にしろ、これだけの墳墓を築かせ陪塚(墳)を従えて祀られているのだから、相当な権力の持ち主だった事は確かである。又、九州からきたのか元々奈良から発生したのかはともかく、古墳時代にはこの地方がこの国で中心的な役割を果たしていたのも事実に違いない。 これらの権力をそのまま維持し、或いは屈服させて大和朝廷が出来上がったのも容易に想像できる。











1500年の時を経て古墳は、夕焼けにその美しい歴史を今日も晒している。






櫛山古墳









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