SOUND:Penny Lane
景行天皇陵・檜原神社
山辺の道を行く−9・10





第12代 景行天皇陵



		
		渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳は、現在景行天皇陵という事になっているがこの天皇は存在を疑われている。実在しなかった
		可能性もあるのである。前節でのべたように、ここが崇神天皇陵である可能性も残っている。この古墳は、前方部分を盆地の方に向
		けた全長300mの前方後円墳であり、その大きさは他の古墳を圧倒している。
		後円部分の直径160m、前方部の幅170mと前方部分にやや大きく広がった形をしている。低い周濠が廻りを巡っており、所々
		に古墳へわたる土手が築いてある。箸墓古墳に次ぐ、大和古墳群第二位の大きさを持つこの古墳は三輪王朝の最盛期に築かれたと考
		えられるが、一体葬られているのは何者なのか?
		謎は深まるばかりだ。








景行天皇陵を過ぎしばらく田圃や果樹園の中を行くと、目の前に三輪山が姿を現す。正確には、三輪神社とはこの山全域の事を言うらしい。山の形は、安本美典教授が言うように、なるほど筑紫の朝倉郡三輪町にある三輪山とそっくりだ。

安本教授の説は、筑紫の朝倉郡(今の甘木市・朝倉郡地方)に居た一群が、集団で大和地方へ移住しその結果大和朝廷をうち立てた、と言うもので、それによれば邪馬台国は筑紫の甘木・朝倉地方と言う事になる。事実、朝倉地方と奈良大和地方の地名の一致は驚く程であり、宮崎公立大学の奥野健男教授は、更に事例を拡大してこの説を支持している。

さらに、この集団移住が後の世に伝わり神武東征として伝えられた、と安本教授は主張している。この説は近年とみに多くの支持者を集め、東京に本部を置く邪馬台国の会を設立して安本教授による勉強会や講演会を各地で開催している。しかし安本教授の説は、数理統計学やPCを駆使した展開になっているため、既存の歴史学者や考古学者には理解できず、学会では殆ど無視されている感がある。 だが一般の、合理性を重視する古代史マニアや、学閥・派閥に無縁の歴史学者・考古学者達からはおおむね好感をもって支持されているようである。


三輪山の麓を行くと檜原(ひばら)神社に着く。ここは拝殿もなく、ご神体の磐座の前に鳥居の形をした格子戸が立っているだけの、およそ神社とは呼べないような所であるが、本来の神社というものは こういうものだったのかもしれない。


		我々が一服している時、うら若きお姉ちゃんが一心に何かを祈っていた。家には仏壇もなく、お彼岸に墓参りにも行かず、平素は先祖
		や始祖の事など歯牙にもかけていない我々だが、こうやってご神体と向き合うとやはり何事か祈らざるを得ない。しかし又その多くは、
		商売繁盛とか家内安全とか合格祈願とか、実に自分勝手な願いなのである。

		もし神様が居たら、そのような日本民族の願いを一体どの程度聞き入れてくれるものであろうか。

  


		山辺の道は、その殆どが田舎道である。マンションに住み地下鉄で職場へ通い、夜のネオンにどっぷりと浸った我々が、とうに忘れ
		てしまった田舎の道だ。こういう道を歩くと心が落ち着くと人は言い私もそう思うが、友人に言わせると、「歳くった証拠」だそう
		である。


  


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