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竹之内・萱生環濠集落
たけのうち・かようかんごうしゅうらく

山辺の道を行く−4







中世に、外敵から守るため村の周囲に環濠を張り巡らした集落。竹之内は、大和では最高所に位置する。萱生は古墳の一部を環濠として利用しており、白壁に大和棟の落ち着いた家屋が多い。









  



  
古代の墓の上に現代の墓が立ち並ぶ。下右が衾田陵。

  

  






万葉歌人柿本人麻呂の生地は、一説によると天理市櫟本(いちのもと)町と伝えられる。先述した石上神社の管理は、実は物部氏だけが担当したのではなく、垂仁天皇紀の別伝に、春日臣の一族の物部首の名前があり、 この後身は布留宿禰(ふるのすくね)で、柿本朝臣(かきのもとのあそん)と同祖となっている。柿本氏や春日氏は、大宅(おおやけ)・櫟井(いちい)・粟田・小野氏などとともに、奈良盆地東北部から京都盆地北部に勢力拠点 を持っていた和迩(わに)氏の一族と見られている。
現在、和爾下(わにした)神社の西に歌聖柿本人麻呂の歌塚が立っている。任地の岩見で死んだ人麻呂の遺髪を、後の妻依羅娘女(よさみのおとめ)が持ち帰ってここに葬ったもので、現在の碑は享保17年(1732)に建てられた。 人麻呂は山辺の道あたりを詠んだ歌を数多く残しており、この歌も妻の死に際して詠んだもので、歌人の悲しみが伝わってくる。ここにある引手の山というのは龍王山の事で、山腹には夥しい古墳がありその中の一つが人麻呂の妻(軽郎女:かるのいらつめ?) の墓かもしれない。

この碑は、後ろに龍王山を望む山辺の道の傍らにひっそりと立っている。

衾道(ふすまじ)を 
引手の山に妹(いも)を置きて
山路をゆけば 生けるともなし



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