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巨勢の道

− 葛城山麓もう一つの古道 − 歴史倶楽部第70回例会 2003.3.2(日曜) 奈良県御所市


		我が歴史倶楽部では、第40回例会として2000年10月28日に「葛城の道」を歩いた。その日は生憎の雨で、雨に煙る葛城山麓で
		大いに葛城王朝の雰囲気を味わった。今回は国道24号線を挟んで、その葛城の道とは反対側にある「巨勢の道」である。前回
		と違ってカラリと晴れた早春の葛城山麓もまた楽しかった。


		「御所市は、大和平野西南端に位置し、西部に金剛山葛城山が峰を連ね東南部に丘陵地から平野の広がる、緑豊かな自然に囲ま
		れた田園都市である。古代文化が早くから息づいた地域で、豊かな自然と悠久の歴史に彩られた文化遺産を今に伝える。現代に
		残された自然と足跡を訪ねて歩く古道「葛城の道」「巨勢の道」には、歴史ロマンとなつかしさがある。御所市一帯は、天皇家
		の外戚として権勢を誇った葛城氏や巨勢氏の本拠地となっていたことから、とりわけ5〜7世紀の遺跡や史跡には目を見張る
		ものがある。ほか、古代から禅行修道の場となった金剛山や、その山腹に所在する初期の山岳寺院、高宮廃寺が国の史跡に指定
		されている。 また、10世紀初頭に成立した「延喜式」に記載のある格式の高い神社、いわゆる「式内社」が多いことも特徴の
		ひとつ。当時のものではないが、高鴨神社や、長柄神社の社殿は、特色ある建造物としてそれぞれ国や県の重要文化財に指定さ
		れている。国指定の寺院建築としては、鎌倉時代建立の安楽寺の塔婆、民家としては江戸初期の中村邸がある。それぞれ当時の
		建築様式を現在に伝えるものとして貴重なものである。このほかの葛城の地域には、古くから伝えられている格式のある社寺が
		多いため、国や県の重要文化財に指定されている仏像や神像も少なくない。」(御所市のHPより)

		

		「巨勢(こせ)の道」とは、大和朝廷が日本を統一しかかった頃、大和の西南の地を本拠地として活躍していた、巨勢氏一族の地
		を往く古道である。「記紀」によると、葛城氏と巨勢氏はともに御所市域を本拠とした大和朝廷時代の豪族で、天皇家の外戚・
		大臣として権勢を誇っていた。6世紀初め、武烈天皇は世継ぎがなく血統断絶の危機を迎える。諸策の末、応神天皇の5代後の
		子孫で、現在の北陸地方にいたとも近江にいたともされる継体(けいたい)天皇が擁立される。その継体天皇の擁立を強力に押
		し進めた人物が、生駒山麓(現東大阪市あたり)にいた馬飼首荒籠(うまかいのおびとあらこ)と、葛城山麓の巨勢男人(こせ
		のおひと)であり、継体天皇の即位を契機に巨勢氏の権勢は大きくなり、その後絶頂期を迎えたと考えられている。葛城氏と巨
		勢氏は、主に御所市を中心としたこの地域で権勢を誇った巨大豪族であり、御所市域に点在する数多くの古墳は、この二大豪族
		に何らかの関わりがある者達の墓と考えて間違いなさそうだ。

		大和盆地から吉野川流域に通じる道はいくつかあるが、なかでも重坂峠を越す道、いわゆる巨勢道は万葉集にもその名が登場す
		る街道で、古くからよく知られている。巨勢道は、飛鳥から高取町を経由して、現御所市戸毛・古瀬の曽我川を遡り、越智岡丘
		陵の東裾を通り、巨勢山の東の巨勢谷を経て重坂峠を越え吉野・和歌山へ至る「古道散策路」である。のどかな里の風景、季節
		の花々、そして古の浪漫に満ちた、点在する古墳や古代遺跡を訪れる「歴史街道」でもある。

 

上左看板の、真ん中を横切る国道が24号線で、上部が「葛城の道」、下部が「巨勢の道」である。



船宿寺

 

		近鉄、御所駅前からバスに乗り「船路」で下車する予定が、乗り過ごしたのかバスが通過したのか「風の森」まで来てしまった。
		ここから「船宿寺」めざして田舎道を歩き出す。左手に金剛、葛城の山並みがすばらしい。雨に煙った幽玄な山並みも良かった
		が、晴れ上がった山塊もすばらしい眺めだ。紅や白の梅の花がいまや盛りと咲き誇っており、その香りに包まれて歩いていくと、
		やがて「医王山船宿寺」と書かれた門前に至る。なだらかな石坂を上ると静かな佇まいの古寺がある。

 

		【船宿寺(せんしゅくじ)】
		昔、当麻寺(現、北葛城郡当麻町)から五条、高野山に向かう道を高野街道といい、御所市内では西側の地区にこの街道が通っ
		ていた。船路の集落は、この旧高野街道沿いにあった。真言宗の名刹、船宿寺は、千年の間、法灯を守り続けているという。
		広い境内は四季折々の花で彩られ、とりわけ数百株に及ぶというサツキはみごとらしい。また、大和地方では珍しい、裏山を借
		景にした池泉回遊式の庭園も見どころらしいが、予約がいるようで今日は見学できなかった。しかし、ここから眺める金剛山、
		葛城山はすばらしかった。「船宿」という寺の名前は、行基が山上の岩が船の形に似ていたから、こう名付けたと説明版にある。

 

 

 

ここから見る金剛山、葛城山はすばらしい。「葛城の道」の時はあまりに近すぎてその雄大さに圧倒されたが、ここから見る遠景は綺麗だ。

 











葛木御歳神社

		【葛木御歳神社(かつらぎみとせじんじゃ)】
		国道24号線の東側に御歳山があり、その北麓に葛木御歳神社がある。ここの神社は代々鴨族が祭りごとを行ってきた神社の一
		つで、高鴨神社に対して中鴨さんと呼ばれている。祭神の御歳の神は穀物をつかさどる神である。「古語拾遺」によると、昔、
		大地主神が田を開いたとき、百姓に牛の肉をふるまったことに御歳の神が大変怒り、いなごをその田に放って稲を枯れさせたの
		で、白猪や白馬、白鶏を奉納して神の怒りを鎮めたという。社殿が山の中央を避けて建てられているのは、巫女奉仕をした斎宮
		のしきたりにならったものといわれる。

 



鴨族が祭ごとを行ってきた神社。「稲の神」として古くから信仰があり、かっては朝廷の豊作祈願が行われた。

 

  







大穴持神社

		【大穴持神社(おおなむちじんじゃ)】
		御歳神社を北上して西へ曲がり、栗坂峠を越えて田畑と集落が続く県道215号線のだらだら道を下る。県道の脇に看板があり、
		県道から田んぼのあぜ道のような細い道を右へ道をとる。目の前左側に「八紘寺」が見える。濁った小川に架かっている木橋を
		渡って、標高322mの唐笠山(宮山)の麓から薄暗い林の中を歩き出すと、石造りの古ぼけた鳥居があった。そこから急な道
		を上り切った山の中腹に大穴持神社がある。急な坂道が山上に向かって続いており、それが参道だが傾斜は急であり、中年太り
		の身にはこたえた。

 

		「おおなむち」神社というのは日本全国に300近くあり、大穴持は一般的には大国主命の別名と考えられており、大巳貴とも
		書くし、呼び方も、「おなんじ」と呼ぶ所もあり、「おおあなもち」「おおあなむち」と呼ぶ所もある。この神社も祭神は大己
		貴命であるが、神社創建の年代は不詳である。大穴持命の他に祭神として、八重事代主命、下照姫命、美須伎速男命、美須伎建
		男命の名前が見える。式内社で、元三輪神社ともいわれており、拝殿はあるが本殿(神殿)はない。その事から奈良の三輪山と
		同じく唐笠山そのものがご神体ではないかという見方もあるが、私見ではこれは後世のこじつけだろうと思う。私は福岡県の甘
		木市出身だがすぐ隣の朝倉郡三輪町にも大巳貴神社があり、ここも背後の三輪山がご神体だとされている。しかしそれは大己貴
		命=大国主命=大物主命という図式が知れ渡った後世の人たちのしわざで、そもそもその神社が祀っていたのはそのような全国
		神ではないと思う。祭神の一人下照姫命は製鉄の女神とも言われており、巨勢氏がこの一帯で製鉄を営んでいたとすれば、この
		大穴持神社は巨勢氏の氏神で、巨勢氏一族のためにだけ建立されたものであろう。

		大国主命が特定の個人をさすものではなく「天つ神」に対する「国つ神」の総称であるという考えは角川源義なども言っている
		が、天つ神をいただく初期ヤマト政権に各地の国つ神達が屈服していく過程で、各氏神もそれぞれの祭紳を捨てさせられ、軒並
		み大国主命になっていったという可能性は大いにある。そしてそこから、稲作・金属器文化に代表される「天つ神=弥生文化」
		と、我が国で太古から土着・発展してきた「国つ神=縄文文化」という構図が浮かんでくる。

 

		「御所市史」によると、三輪信仰の原始の形を留めるものと見られ、遙か彼方に三つ並んで見える金岳・銀岳・銅岳の吉野三山
		を遙拝しているように見える。この吉野三山が山霊を祀る最も古いものであることを物語るものではないか、とある。つまり、
		金・銀・銅の吉野三山が、この神社の神奈備だという見方である。元三輪神社ともいうところから、自然神を崇拝する原始信仰
		の根源だと言うが、すこし我田引水ぎみのような。



		山頂の開けたところに拝殿がある。拝殿は石垣の上に建てられ、砦のような形をしている。石段を登ってみると磐座がある。
		拝殿背後の板囲いの中にカシとツツジの木を神体として祀っているらしい。静寂な空気が漂う神社の境内で昼食をとる。拝殿
		へ到着したとき、風の森から我々と同じコースを一人で廻っているおじさんが休憩していたが、我々が到着するとそそくさと
		出発してしまった。他には人の気配は全くない。一人で居ると少し怖いくらいの静寂である。

 

     	延喜式葛上郡神名帳によれば、葛上郡に十七座あり、以下のようになっている。

		鴨都波八重事代主命神社二座
		葛木御歳神社     葛木坐一言主神社		多太神社       長柄神社
		巨勢山口神社     葛木水分神社		鴨山口神社      大穴持神社
		葛木大重神社     高天彦神社		大倉比売神社
		高鴨阿治須岐詫彦根命神社四座

		今、ご自分がお住まいの町をぐるりと見回していただくと、結構神社がある事にお気づきになると思う。日本にはホントに神社
		が多い。勿論北海道のように、近年になって作られた神社もあるが、キリスト教における教会が、一つの町に1,2しかないの
		と比べると、日本では一つの町に幾つもの神社があり、その多くが起源もわからない古いものが多い。名もない地方の町へ行く
		ほど神社の起源は不明である。後から書いたと思われる「縁起」や「由来」は勿論あるが、それがそのまま由来を記していると
		は考えられない。神社の起源とその廻りの状況を調べることによって、その町の、ひいては日本の歴史がわかってくる可能性も
		大いにある。


水泥双墓古墳

		【水泥双墓古墳(みどろそうぼこふん)】
		大穴持神社での昼食後、「八紘寺」の中を通り過ぎて再び県道へ出てしばらく行くと、巨勢道に面した丘陵の東斜面に横穴式石
		室の水泥古墳がある。2つの大型古墳でそれぞれ水泥北古墳、水泥南古墳と呼ばれているが、北古墳は西尾家の邸内にあり、南
		古墳は、そこから100mほど南側に離れたところにある。南古墳も西尾家の地所内だ。
		このあたりは昔は今来と呼ばれ、等間隔を置いて二つの古墳があることから今来の並墓と呼ばれ、一時、蘇我蝦夷・入鹿父子の
		墓ではないかといわれたようだが、このあたりが巨勢氏の本拠地である事はほぼ確実なので、蘇我氏がここに古墳を造ったとは
		とても思えず、巨勢氏一族の墓との考えのほうが正解であろう。

 

		【水泥南古墳】
		この古墳は2つの石棺が合葬されている。石室のほぼ中央に1個の精巧な家型石棺を置き、他の1つの石棺は石室に置かず羨道
		に置いてある。石棺は双方とも花崗岩質の家型石棺で、それぞれ2個の側面に2つの縄掛突起を持つ。その制作技術は非常にす
		ぐれており、最近発見された「條ウル神古墳」などと共通のものがありそうだが、あちらは側面に3つの縄掛突起を持っている。
		この古墳は、昔は土砂が埋まり、低い入口から中をのぞくだけであったようだが、最近は写真のように整備され、中の石棺を見
		ることができる。しかし羨道が狭く、奥の石棺までは到達できない。また奥の石棺は羨道よりも石棺のほうが大きいため、運び
		入れたものではなく、設置した後、羨道を作ったようだ。羨道の石棺も羨道へ入れるため側面の縄掛突起を削っていると説明に
		ある。

 

 

100m離れた自宅から、西尾さんが古墳の鍵を持ってきて開けてくれる。頼めばいつでも見せてくれる。

 

 


		この古墳が有名なのは、手前の羨道に置かれた石棺の、蓋正面の縄掛突起に蓮華文の彫刻があることである(上左)。蓮華文を
		刻している例は我が国の石棺には例が無く、わずかに岡山県美作から出た陶棺に1例報告されているだけである。ここから、水
		泥蓮華文古墳と書いてある本もある。蓮華文は仏教思想と深いかかわりを持った文様であり、ここに眠る人物は仏教と関わりの
		あった人物と推測できるが、本格的な仏教思想が広まった時代にはもう古墳はないので、この時代、新たに伝播しはじめた仏教
		文化と旧来の古墳文化の融合を示す最古の事例として極めて貴重な古墳である。国史跡になっている。しかし、蓮華文はもうだ
		いぶかすれていて、説明写真にあるようなくっきりした蓮華文は見えない。上右は、その蓮華文の下の隙間からデジカメを差し
		込んで撮した石室内部。

 

古墳の前は畑である。その畑を指さして、「あそこから、こう、排水溝が掘ってあったんです。」と西尾さんが説明してくれた。







		【水泥北古墳】
		続けて西尾さんが水泥北古墳へ案内してくれる。西尾氏の宅地内にある水泥北古墳は水泥塚穴古墳ともいわれるが、家の裏にある
		ので、西尾邸の庭を通って行くことになり、ちょっと恐縮する。ここも少人数であれば訪れたその日に見学させてくれるが、わか
		っていれば事前に連絡が欲しいとの事である。南古墳よりこちらの方が若干時代は古いのではないかとされている。

 

 


		ここには石棺はない。羨道を通ると奥に広い石室があり、側面、天井、入り口の巨石に驚かされる。「條ウル神古墳」と同様に、
		ここの巨石の大きさも石舞台古墳に匹敵する。ほんとに驚く。こんな巨石を持った古墳はそうそう無い。一体誰が葬られていたの
		だろう。人物名こそ特定はできないが、この辺り(古瀬)には当時の巨勢氏の首長の墓とみられる大規模な横穴式石室を持つ古墳
		がたくさん残り、樋野権現堂古墳(県史跡)→ 新宮山古墳(県史跡)→ 水泥北古墳(国史跡)→ 水泥南古墳(国史跡)の順
		に系譜を追うことができる。

 

発掘後、研究機関に預けていた出土物が返還されてきたそうで、西尾家ではそれを、棚を作って保管・展示している。

 

耳環(じかん)、高坏・壷などの須恵器、排水溝に用いた土管様の大型土器などは南古墳から出土したもののようである。



 

奥さんの話では、西尾家は巨勢一族に縁りのある家系と言い伝えられているそうだ。昔からこの辺り一帯の地主だというし、さもありなん。

 





川合八幡神社

 


		【川合八幡神社(かわいはちまんじんじゃ)】
 		境内の建物の桟に、藁で作られた奇妙な形のものが、たくさんぶら下がっていた。皆ほぼ同じ形をしている。この奇妙なものは、
		実は縄で編まれた大きな座布団位のカマス(ゴクツという)様のもので、祭礼に、その中に餅を包み込んで、松明であけた穴の中
		に手を突っ込み、餅を奪い合うそうである。ヒキアイモチと呼ばれるこの珍しい神事は、民俗学上貴重な資料として専門家の関心
		を集めてるそうだが、この餅を食べると安産になるというので、特に妊婦には人気が高いそうである。

 


		三遊亭円丈という落語家がいる。出っ歯でメガネをはめていて、最近はあまりTVにも出ないようだが一時は現代落語の旗手とし
		て盛んに活躍していた。彼はPCにも明るくHPももっている。そしてその中で紹介されている彼の趣味の一つが、狛犬の写真収
		集である。ここの狛犬もちょっと変わっている。雌(たぶん)は玉を首の下に掲げ、雄は我が子を足の下に敷いている。まるで石
		川五右衛門のような狛犬だが、三遊亭円丈に知らせてやれば喜ぶかもしれない。

 





玉椿山阿吽寺

 		【玉椿山阿吽寺(ぎょくちんさんあうんじ)】
		八幡神社から北東に歩き、右手にJR和歌山線、曽我川(巨勢川)、近鉄吉野線等を見ながら行くと、やがて近鉄とJRが同じ駅
		名を使っている「吉野口」駅の横を通る。名前の通り、吉野の玄関口にあたる。ここから線路、国道を越えた所にこの寺がある。
		平安時代に、阿吽法師が水害に悩むこの地の住民を救い、請われて玉椿精舎と呼ばれた巨勢寺に入り再興を果たしたことからこの
		名が残ったとされる。江戸時代には高野山真言宗の寺だったが、明治の初めに廃寺となり、その後明治と昭和の二度にわたり地元
		の人々の手によって再建されている。いまは特定の宗派に属さず、霊験あらたかな観音様の寺として人々の信仰をあつめている。
		敷地に椿が多いことから、山号を玉椿山という。なろほど、境内から裏山にかけて椿が群生している。花はこれからといったとこ
		ろか、チラホラ咲きだ。

 




		境内に石碑があり万葉集巻1の54歌が刻まれている。碑の揮毫は、元大阪大学名誉教授犬養孝氏である。

		巨勢山乃	こせやまの 
		列列椿		つらつらつばき 
		都良都良尓	つらつらに 
		見乍思奈	みつつおもはな(みつつしのはな) 
		許湍乃春野乎	こせのはるのを 

		説明によれば、大宝元年(701年)九月、太上天皇(持統)が紀伊の国に行幸の際に、随行の坂門人足(さかとのひとたり)が
		詠んだ歌で、連なって群生する巨勢のあたりの椿をつくづくと眺めてその春の盛りの美しさを偲ぶ、という意味の歌である。

 





巨勢寺塔跡

		【巨勢寺塔跡(こせでらとうあと)】(国史跡)
		阿吽寺から国道309号線を約400m北に行った所で「吉野口」駅からもすぐ近くに、近鉄線とJR線の線路に囲まれた小さ
		な森が見える。これが巨勢寺の塔跡である。




		巨勢寺は7世紀の飛鳥時代に建立された巨勢氏の氏寺であったと伝えられ、7世紀から10世紀の頃この地で栄え、巨勢寺の一
		子院であったと言う。JR線路の脇にある大日堂が、かっての巨勢寺の中心地でその土壇の中央に約1.3m角の塔心柱(とうし
		んそ)の礎石が元のままの位置に残されている。

 


		鎌倉時代までは建物が存在したようであるが、現在では塔跡に残された心礎が残るのみである。昭和62年の調査では、講堂跡
		などが確認され、巨勢路に面して建てられた寺院であったらしい。調査によって東面する法隆寺式の伽藍配置であったことがわ
		かっており、往時の壮大さを偲ばせる。 



 


		礎石の上面に径88cm深さ12cmの円柱穴、その中央には径13cm深さ6cmの舎利納孔が設けられている。特徴として
		孔の周りに同心円上に三重の溝を掘り、これらを結ぶ排水溝を設けて進入した水を外部へ排水する構造になっている。細溝(水
		抜孔)を造ってあるのは他に類例を見ない様式だという。

 





安楽寺

		【安楽寺(あんらくじ)】
		葛地区の緩やかな丘陵を横切る場所に位置している稲宿の集落は、その昔、多くの人が行き来した街道筋にあり、ここに塔婆を
		もつ安楽寺がある。国重要文化財安楽寺は大和時代の白鳳飛鳥期に聖徳太子の草創に拠るものとされる。開基当初は、聯全堂、
		阿弥陀堂、宝塔の三宇の伽藍に山門、鐘楼、弁財天洞、及び五院坊を配して、葛城古道の東域にその威容と宗勢を誇ったが、豊
		臣秀吉の検地、江戸中期の大火、永年にわたる損壊や腐朽により、堂宇建造物の大半を失うに至った。境内には一日で散るとい
		う白い花の沙羅の木があった。

 



 

一日で花が散るという沙羅の木(勿論今はシーズンではないので花はつけていない)




		絢爛豪華を極めた塔婆(宝塔)も、延宝年間に上部二層が零落して最下層を残すのみとなり、上には宝形の屋根をあげている。
		建築様式から、鎌倉時代末期頃建てられたと推定されるが、はっきりとした年代はわかっていない。「その姿はなかなか美しい」
		、とパンフレットには書いてあるが、遠くから眺めてみて、それ程の実感はなかった。

 

 







新宮山古墳

		【新宮山古墳】
		安楽寺から古瀬の部落に入った小高い山の上に、新宮山古墳がある。墳丘に竹林が繁っていて、看板がなければとてもここに
		古墳があるとはわからない、横穴式石室の円墳である。入り口には低い柵があったが乗り越えれば中へ入れる。幸い懐中電灯
		を持っていたので河原さんと中に入ってみる。照らしてみると、大きな箱形石棺が横たわっていて、その後ろには、板状の石
		造物があるが、見ただけでは一体何かわからなかった。トタン板を折り曲げたような格好をしている。続いて錦織さんと馬野
		さんも入って見ていた。



 

入り口から玄室を見たところ(上左)と、玄室から入り口を見たところ(上右)。羨道も結構長い。

 

両側面に2つの縄掛け突起を持った、古墳時代後期の刳り抜き式石棺。

 

説明によれば、これが箱式石棺のようだが(下)、どれが蓋でどれが側板かわからず、とても石棺には見えなかった。







條ウル神古墳

		【條ウル神古墳(じょううるがみこふん)】
		もう埋められてしまっているかもしれないと思ったが、ちょうど1年ほど前に現地説明会に来た條ウル神古墳を訪ねてみた。
		案の定、今は埋め戻されていてただの丘になっていた。草茫々の中に蕗のとうがたくさん芽を出していて、早春を実感。古墳
		側の家の人に「ウル神」の地名のいわれを聞いたが、分からないとのこと。まったく変わった名前だ。何となく「渡来」の匂
		いがする。

 

すっかり埋め戻されて、再び本格調査の始まる時を待つ古墳(上右)。





日本武尊琴弾原陵

		【日本武尊・琴弾原陵(やまとたけるのみこと・ことひきはらりょう)】
		「巨勢の道」は一応全部終了したのだが、どうせ近鉄御所駅へ戻るのだし、途中にある日本武尊陵と孝安天皇陵に寄っていく事
		にした。私はどちらも一度来たことがあるが、皆さんはじめてだそうで、私も以前来たときは整備中だった日本武尊陵が、その
		後どうなったか見たかった。
 




		<白 鳥 伝 説>
		日本武尊は、父の景行天皇から、朝廷に服従しない熊襲・出雲などを征討するように命じられ、軍勢もないまま征討に赴き西国
		を平定し、やっとの思いで大和へ帰ってくるが、休む暇もなく父から東国の蝦夷を征討せよと命じられる。その命令を受けた日
		本武尊は、伊勢にいた叔母の倭比売命に自分の不遇を訴えている。幾多の苦難のすえ、東国を征討するが、その帰る道中、伊吹
		山の神との戦いに破れ、傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとする。能褒野(のぼの)(亀山市)に辿り着いた時、つい
		に力尽きその地で死んでしまう。死に臨んで日本武尊は、大和への思いを、「大和は国のまほろばたたなづく青垣 山こもれる
		大和し美し」と詠んでいるが、能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、この琴弾原を経て、旧市邑(ふ
		るいちむら)(羽曳野市)に降り立ち、その後何処ともなく天高く飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えている。
 

 


		御所市の琴弾原は、その昔旅人が休憩し居眠りをしていると、どこからともなく美しい琴の音色が聞こえてきて、辺りを見回す
		と、水たまりに水の雫が落ち、岩に響く音であった。その音色は、琴を弾いているような音であったことから、琴弾原と呼ばれ
		るようになったという。伝説に基づいて、日本武尊の墓は三重県亀岡市・奈良県御所市・大阪府羽曳野市の三市にあり、一般に
		「白鳥三陵」と呼ばれ、そのゆかりから、3市間で歴史・文化を契機とした友好を図りまちづくりのための交流を行っている。


琴弾原陵の全景







第6代孝安天皇陵

		【孝安天皇陵(こうあんてんのうりょう)】
		孝安天皇の玉手の丘の上の陵は大和の国葛上郡にあり(延喜式)。御宇百二十年正月に崩御なり給いき。玉手の丘の上の陵は玉手
		村この所なり。室村より乾(いぬい)にして川の東なれどその在いまつまびらかならず。(日本紀)

 

 







吉祥草寺

		【吉祥草寺(きっしょうそうじ)】
		孝安天皇陵からしばらく歩いて、最後の目的地、吉祥草寺に到着。前回の「葛城の道」散策で見逃しただけに、今日はなんとして
		も見たかったが、無理矢理ここまで引っ張ってきたので、10人のメンバーもさすがに少々お疲れぎみのようだ。山門を入ってす
		ぐ右側に、御所に住み、大和絣の創始者で能筆家でもあった浅田松堂の愛用した硯や筆を埋めた筆塚がある。当寺は第34代舒明
		天皇が創建、開祖は役行者である。境内に役行者が産湯を使ったといわれる井戸がある。

 

新会員馬野さんは、OUTDOORでもダンディーだ。さすが、モテる男は違いますなぁ。

 

 

 




		−御所市茅原 役行者の生誕地−

		役行者(えんのぎょうじゃ)/役小角(おずぬ )は、634年御所市茅原に生まれたとされる人物で、吉祥草寺は彼の開基と伝え
		られている。葛城山で修行を積み呪術を習得するが、弟子の讒言にあって伊豆大島に流される。許されて帰国後はいずこで死んだ
		ともはっきりしないが、そもそもはその実在すらが怪しい。平安時代になって、「行者」と呼ばれるようになり、鎌倉時代には修
		験道の開祖として祭り上げられる。この辺りの詳細については、「邪馬台国大研究HP」の「邪馬台国と日本史を取りまく謎」の
		中で取り上げているのでご参照頂きたいが、ここ地元では当然実在の人物として扱われており、この寺の境内には「産湯の井」ま
		である。役行者が通ったとされる「行者街道」もあり、近鉄御所駅から、役行者の生誕地=吉祥草寺までの道のりを「御所まち」
		の雰囲気を楽しみながら歩くことができる。

 

 

 

役行者の産湯井戸(上左)と、腰掛け石に掛ける栗本行者。








		最後は、この前と同じ店を探して「御所まち」を歩き、御所駅近くで同じ居酒屋を見つける。しかし他に飲み屋さんはなさそう
		であった。これで、本日の歴史散歩は終了。皆さんお疲れ様でした。




邪馬台国大研究・ホームページ/ 歴史倶楽部/ −巨勢の道−