Music: 思い出のSanfrancisco

泉州・岸和田城 2003.2.2 大阪府岸和田市

		
		二色が浜にお客さんを訪ねた帰り、いつも電車の窓から見えていた岸和田城を訪ねてみた。南海電車岸和田駅から歩いて15分くらい
		だ。商店街の中を抜けて国道沿いに歩いていくと、消防署の先にお城の濠が見えてくる。消防署員が訓練をしていた。



		
		現在の岸和田市一帯は、古くはただ「岸」と呼ばれていたようだ。戦国時代頃までは現在の二の丸跡近くまで潮が押し寄せていたとい
		う話もあるので、岸という名はモロに海岸線を意味していたのだろうと思われる。建武元年(1334)、後醍醐天皇の建武の中興によって
		楠木正成が摂津・河内・和泉三国の守護守護となり、一族の和田新兵衛高家にこの地方の代官を命じ居城を作らせた。元々岸と呼ばれ
		ていたので、高家のことを「岸」の「和田」、即ち「岸和田」と呼ぶようになり、居城も岸和田城と呼ばれるようになった。
		和田高家が築いたもともとの城は、現在の城東方(野田町)、南海岸和田駅から南東部へ数百mの所にある照日山にあったらしい。
		城と言ってもおそらくその頃の城は、砦に近いものだったのだろう。現在、住宅地の中の小高い丘の上に、「和田氏居城伝説地」とい
		う石碑が一つ立っているらしいが、そこまでは見に行けなかった。伝説地と言う文句が哀しい。

 

 

 

		 
		南朝が滅んで室町幕府時代・戦国時代になると、世の動乱に呼応して和泉の守護もよく交代し、一時大内・細川氏が勢力をのばしたが、
		その後三好氏の一族安宅兵庫が支配した。元亀・天正の頃は織田信長に属した松浦・寺田氏が城主となったが、天正5年(1577)には、
		豊臣秀吉の腹心中村一氏が城主となり、根来、雑賀一統襲来の時は、大坂城を預かる黒田孝高の援軍を得てよくこれを撃退した。しか
		しその後再び根来衆は和泉に進出し、岸和田城攻めの機会をうかがっていた。小牧長久手の戦いを終えた天正13年(1585)秀吉は、
		10万と称される大軍を率いて和泉に入り、根来衆の砦を次々と陥落させ、ついに本拠地である根来寺を攻撃して壊滅させた。



		 
		天正13年(1585)秀吉の紀州平定後、一氏は江州水口に転封し、かわって秀吉の叔父にあたる小出播磨守秀政が岸和田に入封した。
		小出秀政によって岸和田城築城が始まり、天守閣がつくられた。現在の城郭の形に整備したのは秀政である。反秀吉勢力である根来衆
		・雑賀衆への厳重警戒の基地として、秀吉が多重の堀に囲まれた広大な城を作らせた。小出氏は岸和田城に秀政・吉政・吉英と3代続
		いたが、大坂の陣で豊臣家が滅亡すると元和5年(1619)、小出氏は但馬出石に移封され、代わって丹波篠山より松平(松井)康重が5万
		石(後に6万石に加増)で入封し城下町の整備を行ったが、寛永17年(1640)松平康重の後を継いだ康映(やすてる)は播磨山崎に転封さ
		れた。

 

		 
		代わって摂津高槻より岡部宜勝(のぶかつ)が6万石で岸和田城主となり、城を大改築して近世城郭を築き上げた。この時伏見城の櫓及
		び城門が移築された。また石垣を積み、津田川沿岸の堤防も改築され総曲輪をもつ連郭式平城が完成した。周囲に堀をめぐらした本丸、
		二の丸、二の曲輪、さらに土塁と堀を隔てて三の曲輪などを配した、現在見るような大規模な城郭となったのである。宜勝の後を継い
		だ岡部行隆は弟二人に7千石を分知して、以後岸和田城は岡部氏12代5万3千石の居城として明治維新を迎える。 

 

		 
		本丸には本来五層の天守閣があったが、文政10年(1827)の冬に落雷により焼失し、現在復元されている三層の天守閣は昭和29年に
		復興されたものである。幕府に提出した城郭普請絵図に描かれている天守閣は、すべて5層になっている。正保2年(1645年)に作
		られた岸和田城絵図には、熊本城や松本城のように、天守閣の壁に立派な腰板が張られている姿が描かれており、天守閣の大きさは、
		30万石級の大名クラスの居城だとも言う。







		
		別称「ちきり城」とも呼ばれ、これは本丸と二の丸を連ねた形が、機(はた)の縦糸を巻く器具の「滕(ちきり)」に似ていることから来
		ており、また城のある猪伏山全体が、猪が伏せた形にみえる事から「猪伏山(いぶせやま)城」という名もある。



 

		
		二の丸には藩主が居住していた二の丸御殿、その北隅には伏見城から移築した三層の伏見櫓が建てられていたが、明治維新の際に破却
		され、石垣と堀の一部を残すのみとなった。昭和29年に地元の強い要望で、三層の天守閣を持った城として復元整備され、さらに昭
		和44年、本丸跡に城門(多聞櫓)と二層の隅櫓、城壁が再建された。天守閣内部と隅櫓は市立郷土資料館となり、岡部氏の遺品、郷土
		の民具、古文書、美術品などが展示されている。天守閣最上階からは大阪湾が遠望できる。



 



		
		岸和田城の天守閣前の庭園。この庭は「八陣の庭」と呼ばれ、諸葛孔明の兵法の八陣(大将を中心に天・地・風・雲・龍・虎・鳥・蛇)
		をテーマに石組みを配した石庭で、天守閣から俯瞰すると、その全景はなかなかのものらしい。今日は時間が無かったので天守閣には
		登らなかった。(また今度来たときにと思っていたが、今日来たお客さんはその後会社整理(外資に身売り)してしまって、我が社の
		仕事そのものが無くなってしまった。これでこっち方面にぶらりと来る機会が無くなって、天守閣へ登る日がいつ来る事やら。)



		
		大阪で岸和田と言えば、有名なのはなんと言っても「だんじり」である。約300年前に始まっただんじり祭り。毎年9月14日、
		15日に行なわれる豪快勇壮な祭りで、だんじりとだんじりや電柱などへの衝突で毎年一人は死者が出るくらい激しい祭りでもある。
		城の周辺には江戸・明治時代の面影を残す町並みが残り、その一角にだんじり会館もある。実物のだんじりを展示している他、映像
		で勇壮豪快なだんじり祭りを見ることができる。

 

		  
		【岸和田郷土資料館パンフレットより転載 】
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		1334(建部元)年 楠木正成の一族、和田高家が、照日山(野田町)に城を築く 
		1408(応永15)年 細川頼長、和泉半国守護に任ぜられ、岸和田城を居城とする 
		1583(天正11)年 羽柴秀吉、根来・雑賀衆への押さえとして、家臣中村一臣を岸和田城主とする 
		1584(天正12)年 根来・雑賀衆、岸和田城を攻撃する。 
		1585(天正13)年 秀吉、根来・雑賀衆攻めのため、岸和田城に入る。泉南の根来寺出城を落とし、根来寺を焼く。戦後、中村一臣を
				 近江水口へ移し、小出秀正を城主とする(4千石) 
		1587(天正15)年 秀正、6000石加増(1万石)。城郭整備にかかる。竣工は1598年か。 
		1595(文禄4)年 秀正、2万石加増(3万石)。天守閣造営着工。竣工は1597年。 
		1619(元和5)年 小出吉英、但馬出石に転封。丹波篠山より松平(松井)康重入封(5万石)。幕府より石垣泰行、三好長直派遣され、
				 城下の海岸部に防潮石垣を築く。 
		623(元和9)年 伏見城より移築された伏見櫓が二の丸に築かれる。 
		631(寛永8)年 松平康重、領地はそのままで1万石の増高を願い出て許される(6万石)。 
		1640(寛永元)年 松平康映、播磨山崎に転封。摂津高槻より岡部宣勝入封(6万石)。 
		1661(寛文元)年 岡部行隆、襲封にあたり弟2人に7千石を分知。以後、岸和田藩は5万3千石で明治にいたる。 
		1827(文政10)年 天守閣、落雷により焼失。 
		1869(明治2)年 版籍奉還。岡部長職、岸和田藩知事となる。 
		1871(明治4)年 廃藩置県。岡部長職、東京へ移住し、岡部氏13代にわたる治世終わる。 
		1954(昭和29)年 天守閣復興。 
		1969(昭和44)年 城門、櫓復興。 
		1970(昭和45)年 櫓を岸和田市立郷土資料館として開館。 
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天守閣の中だけでなく、庭を出たところにも資料館(上右)があった。

		
		【岸和田市立郷土資料館 】
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		所在地   : 大阪府岸和田市岸城町 
		交通機関  : 南海本線岸和田駅下車、徒歩15分 
		休館日   : 毎週月曜、年末年始(12/29〜1/5)、お城まつり(4/1〜15)、9/15。 
		料金    : 大人200円、小人100円 
		備考    : 復元天守が資料館 。別名、千亀利(ちきり)城、猪伏山縢(ちぎり)城などとも呼ばれている。
			    春は桜が美しく、毎年4月1日〜5日にお城まつりが行われる。 
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		この日の写真には見えていないが、この岸和田城の見どころの一つが本丸跡を取り囲む石垣の南面から東面にかけて残る「犬走り石垣」
		と呼ばれる周堤帯だ。五風荘と岸和田高校側の本丸の石垣の下の周堤帯を言うが、ほかの城では殆ど見られない珍しい造りで、軍事的
		には本丸へ攻め寄せる敵に拠点を与えるという矛盾した造りとなっているが、これは岸和田城の上部の石垣が「和泉砂岩」という壊れ
		易い石を多く用いているため、それを補強するために造られたといわれる。現在の岸和田城は本丸跡と二の丸跡、石垣と堀が残るだけ
		だが、本丸跡の石垣に築城当時の防御の工夫がうかがえる。また、本丸を取り囲む石垣の多くは、おそらく近代になってから補修した
		のだろうと思われる痕跡が多数見うけられる。
  


城の出口近くに「二の丸多聞」という建物があったが、なんと中は公衆便所だった。旨いこと考えたというべきか・・・



小出秀政以来、18代にわたった豊織・江戸時代の岸和田城主
歴代 名前 官位 官職 出自 石高 家格 区分 詰間 備考
初代 小出(出石)秀政 ひでまさ 従五位下 播磨守 小出正重の子   城主 外様 柳間  
2代 小出(出石)吉政 よしまさ 従五位下 播磨守 小出秀政の長男   城主 外様 柳間  
3代 小出(出石)吉英 よしふさ 従五位下 大和守 小出吉政の長男   城主 外様 柳間  
4代 松平(松井)康重 やすしげ 従四位下 周防守 松平康親の長男 54000 城主 譜代 帝鑑間  
5代 松平(松井)康映 やすてる 松平康重の二男 60000 城主 譜代 帝鑑間  
6代 岡部宣勝 のぶかつ 従五位下 美濃守 岡部長盛の長男 60000 城主 譜代 帝鑑間  
7代 岡部行隆 ゆきたか 従五位下 内膳正 岡部宣勝の長男 60000 城主 譜代 帝鑑間  
8代 岡部長泰 ながやす 従五位下 美濃守 岡部行隆の長男 53000 城主 譜代 帝鑑間  
9代 岡部長敬 ながたか 従五位下 内膳正 岡部長泰の二男 53000 城主 譜代 帝鑑間  
10代 岡部長著 ながあきら 従五位下 美濃守 岡部長敬の二男 53000 城主 譜代 帝鑑間  
11代 岡部長住 ながすみ 従五位下 内膳正 岡部長著の二男 53000 城主 譜代 帝鑑間  
12代 岡部長修 ながなお 従五位下 美濃守 岡部長著の四男 53000 城主 譜代 帝鑑間  
13代 岡部長備 ながとも 従五位下 美濃守 岡部長修の二男 53000 城主 譜代 帝鑑間  
14代 岡部長慎 ながちか 従五位下 美濃守 岡部長備の二男 53000 城主 譜代 帝鑑間  
15代 岡部長和 ながより 従五位下 内膳正 岡部長備の二男 53000 城主 譜代 帝鑑間  
16代 岡部長発 ながゆき 従五位下 美濃守 岡部長慎の六男 53000 城主 譜代 帝鑑間  
17代 岡部長寛 ながひろ 従五位下 筑前守 岡部長慎の二男 53000 城主 譜代 帝鑑間  
18代 岡部長職 ながもと 従五位下 美濃守 岡部長発の長男 53000 城主 譜代 帝鑑間  




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