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古代吉備王国の旅 吉備津神社







		<吉備津神社>(きびつじんじゃ) 
		豪壮優美な比翼入母屋造りが映える、神社建築の傑作。本殿と拝殿は、ともに国宝になっているほか、延長398mの回廊も奇観。
		また、御釜殿では、釜の鳴る音で吉凶を占う「鳴釜神事」が行われる。

		所在地 : 岡山市吉備津931 
		問い合わせ : 086-287-4111 
		料金 :  境内自由 
		交通 :  JR吉備線吉備津駅から徒歩5分 
		駐車場:  普通車150台、バス30台(無料) 

 


		主祭神   大吉備津彦命 (オオキビツヒコノミコト) 
		御相殿 
			  御友別命 (ミトモワケノミコト) 
			  仲彦命 (ナカツヒコノミコト) 
			  千々速比売命 (チチハヤヒメノミコト) 
			  倭迹々日百襲姫命 (ヤマトトトヒモモソヒメノミコト) 
			  日子刺肩別命 (ヒコサスカタワケノミコト) 
			  倭迹々日稚屋媛命 (ヤマトトトヒワカヤヒメノミコト) 
			  彦寤間命 (ヒコサメマノミコト) 
			  若日子建吉備津日子命 (ワカヒコタケキビツヒコノミコト) 
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		 当社は大吉備津彦命を主神とし、その異母弟の若日子建吉備津日子命と、その子吉備武彦命(キビタケヒコノミコト)等、一族の
		神々を合わせ祀っております。大吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子にあたられ、もとのお名前を五十狭芹彦命(イサセリヒコミコ
		ト)と申し上げ、武勇の誉れ高いお方であられます。
		一説によりますと、第十代崇神天皇の御代、災害もなくなり天下もようやく治まってまいりましたが、都から遠く離れた地方には
		未だ朝廷に従わない者が多数おりました。そこで天皇即位十年に皇族の中から四人の将軍を選びまして、印綬を授け各地方に派遣
		し討伐することとなりました。すなはち、北陸道には大彦命(オオヒコノミコト)、東海道には武渟別命(タケヌナワケノミコト)、
		丹波には丹波道主命(タニハニミチヌシノミコト)、そして西道のちの山陽道には大吉備津彦命が派遣されることとなりました。
		吉備津彦命と異母弟若日子建吉備津彦命は兵を率いて山陽道を進軍し、まず播磨国に達してここを「吉備の道口」と定められ加古川
		の畔で神祭を行っております。その場所と思われるところに日岡神社が現存し天伊佐々比古命がお祀りされています。こうして命
		は吉備国に入り、人々を苦しめ鬼と恐れられていた温羅一族を苦戦の末退治することができ、この地方に平和と秩序をもたらした
		と云われております。
		その後、崇神紀六十年秋七月の条によりますと、出雲の国造の祖出雲の振根を武渟河別と協力して誅しています。 その後の命の
		事績は定かではありませんが、言い伝えによりますと吉備の中山の麓に茅葺宮を作って住み吉備国の統治にあたられ二百八十一歳
		の長寿をもってお亡くなりになられたといいます。お墓は吉備中山の頂の茶臼山に葬られたと伝わっております。
		 当社がいつごろ誰によって造営されたのかについては、文献もなく確かなことはわかりませんが、ただ言い伝えによると、一説
		に吉備津彦命から五代目の孫にあたる加夜臣奈留美命(カヤオミナルミ)という人が祖神として吉備津彦命をお祀りしたのが起源で
		あると云われております。また一説に若建日子吉備津彦命から三代目の孫と云われる稲速別命(イナハヤワケ)・御友別命・鴨別命
		(カモノワケ)が始めて社殿を造りお祀りしたとも云われます。さらに一説に仁徳天皇が吉備海部直の娘である黒媛を慕ってこの地
		に行幸したときに、吉備津彦の功績を聞き称えるために社殿を創建してお祀りしたのが起源とも伝わっております。
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		(この項、吉備津神社のHPより転載)



 
		矢置岩
		吉備津神社の正面の石段の脇にある岩。吉備津彦命が温羅との戦いのときに、射る矢を置いた岩と伝えられている。毎年、正月に
		は、空に向かって矢を放つ「矢立の神事」(やたてのしんじ)が行われる。

 


		石段を登ると北随神門(ずいじんもん:上右)がある。室町中期の建築といわれていて、国重文である。神社の八脚門は一般的に
		は「随身門」と表記するが、この神社では「随神門」と書くそうだ。随神門をくぐると急な石段から割拝殿へ。そして割拝殿を通
		ると境内へ入る。
 



 

 


		「鳴釜神事」は、温羅(うら)を退治した後、吉備津彦の夢に温羅が出てきて教えた故事に基づくものだという。上田秋声の「雨
		月物語」にも登場している。こちらも同じく「吉備津彦命」を祭神とするが、歩いて十分位の所にどうして2つの神社が鎮座して
		いるのだろうか。10世紀初めに成立した「延喜式」(えんぎしき)には、備中の吉備津神社の名が「官社」として記されている。
		だが、平安末期に吉備津神社は炎上。その後何度か修築を繰り返し、現在の本殿は、応永32年(1425年)に完成したもの。本殿
		は、建て面積255平方mの大きな社殿。「比翼入母屋造」(ひよくいりもやづくり)と呼ばれ、出雲大社の2倍の大きさと言わ
		れている。檜皮葺き(ひわだぶき)の屋根を2つ並べた外観は美しい。



		吉備津神社の拝殿(右半分の長細い部分)と本殿(左半分の妻が二つ連なっている部分)。いずれも国宝。本殿は入母屋屋根を2
		つつなげた形をしていて、これを比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)と言うらしい。この神社の建築様式は全国でも他に例が
		無く、「吉備津造り」と呼ばれる。たしかに本殿が2つくっついた特殊な格好をしている。他では見たことがない。







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