Music: Sanfrancisco in memories

古代吉備王国の旅 作山古墳・須賀神社






造山古墳の説明板の前で、今回の参加者全員(私を除く)。




		<作山古墳>(つくりやまこふん)
		岡山県下では造山古墳(岡山市)につぐ2番目、全国でも9番目の大きさを持つ前方後円墳。全長286m、高さ24mで3段か
		ら成る。造山古墳の少し後に築造されたもののようである。独立した小さな丘陵を削り、盛土をし整形して3段に築いている。古
		墳の形や出土した円筒埴輪などから、5世紀中ごろに築造されたと考えられ、 古代吉備の繁栄の絶頂期にあった頃といえる。畿内
		の巨大墳の多くが陵墓または参考地として、宮内庁の管理下にあり、立ち入ることさえままならない現状にくらべ、作山と造山の
		両古墳は自由に登り観察することができる古墳である。惜しむらくは、早く発掘調査を実施して貰いたいものだ。





吉備考古館というのが案内にあったので来てみたが閉まっていた。鍵のある隣の神社の人も留守でここも見れなかった。




		吉備地方は、縄文時代の早い時期に稲が持ち込まれ、弥生時代には大規模な集落が出来てくる。そして古墳時代には、鉄の生産や
		加工の技術を得たと思われる有力な豪族によって、巨大な古墳が築造される。文献にも、吉備と大和朝廷の関わりを示す記事が頻
		繁に登場する。仁徳天皇は、嫉妬深い皇后の仕打ちに耐えかねて吉備へ逃げ帰った黒媛(日売)の後を追って、この吉備へ訪れた
		と言う。その繁栄の跡から、古代この地方に「王国」があったとする説も根強く、「吉備王朝」などと形容される事も多い。

		下が黒媛(日売)と仁徳天皇を祀ったという須賀神社。これで神社とは恐れ入る。







		岡山県と言えば「きびだんご」と「桃太郎」である。桃太郎伝説にはちゃんとしたベースがある。

		第11代垂仁天皇の頃、吉備の国に「温羅(うら)」という異国の王子がたどり着いた。髪やヒゲはぼうぼうと伸び放題、性格は極
		めて凶悪で、備中国新山に居城を構え、近在の婦女子を誘拐したり、都への貢ぎ物を略奪したりしていた。大和朝廷はこの温羅退
		治に、「吉備津彦命」(きびつひこのみこと)を派遣する。これが「桃太郎伝説」の由来で、吉備津彦命が桃太郎、温羅が鬼と言
		うわけだ。温羅が住んでいたという「鬼ヶ島」は、今も「鬼城山」として総社市に存在し、古代の城郭遺跡が残っていて発掘調査
		も進んでいる。
		発掘は昭和53年から開始され、その調査結果によると朝鮮式の山城で、城壁の総延長は2.8km、城内の面積は約30万uに
		も及んでいる。石積みの城壁が山肌をうめており、壮大なスケールの山城である。鬼が住んでいても不思議ではない。吉備津彦命
		は、古事記や日本書紀に何度か名前が登場する人物で、吉備という名前からこの地方と何らかの関わりのあった人物で、「吉備」
		という名前は後世付与されたものではないかと言う説もある。

		一方でもう一つの「桃太郎伝説」もある。それは、「温羅」は大和朝廷の吉備侵略に立ち向かって「吉備津彦命」と戦った英雄で
		ある、と言うものだ。温羅は百済の王子で、唐・新羅との戦いに敗れ古くから交流のあった吉備に逃れてきて、ここに山城を築き、
		製鉄等の百済の進んだ技術を吉備地方にもたらした。これにより吉備地方は次第に繁栄していった。これを危惧した大和朝廷は、
		吉備征伐に「吉備津彦命」を派遣し、温羅を滅ぼしたと言う話である。「鬼城山」は、温羅とその一族が住んでいた居城と言うこ
		とになる。敗残者の常で、やがて温羅は悪人となり、終いには鬼となった。この話の方が信憑性がありそうだ。大和朝廷に刃向か
		った吉備の豪族達と朝廷側の戦いが「桃太郎伝説」になっていった可能性もあるのである。




		いずれにしても、この地方が古代相当な繁栄を続けていたのは確かだし、大和朝廷と強く結びついていた可能性は大きい。「王朝」
		とまでは言えないにしろ、相当な権力を持った豪族達が、出雲や近畿と肩を並べるような国家を形成していたのである。吉備路を
		歩くと、そういう時代の史実と伝説が入り交じった、遙かな古代ロマンの香が漂ってくる。

邪馬台国大研究ホームページ / INOUES.NET / 吉備王国の旅