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古代吉備王国の旅 造山古墳




 



		遺跡名: 造山古墳(つくりやまこふん)
		所在地: 岡山市新庄下
		概説:  全長360m、後円部径224m、高さ32.5m、前方部幅230m、同高さ27m、くびれ部の両側に台形の造り
			 出しが造られるという巨大な古墳である。岡山県で1位、全国でも4位の規模を誇る。もともとあった低い丘陵を利用
			 して造られている。
			 墳丘は3段築成で各段の縁に円筒埴輪の列があり、葺石もあったようだ。これまでに発掘調査はされていないが、盾形、
			 家形などの形象埴輪が見つかっている。前方部付近には千足古墳や榊山古墳といった、造山古墳の陪塚とも思える前方
			 後円墳、円墳、方墳が6基点在している。墳丘上は、中世に城として利用されたためにやや地形が変形している。また
			 前方部頂上の神社脇には長持形石棺が置かれおり、近くの車塚古墳から運ばれたものとも伝わる。



駐車場から見た造山古墳全景。古墳の裾野まで民家が密集している。


数少ない出土品の幾つか(左上のバックルも)は、この後訪れた吉備路郷土館にあった。

		仁徳・履中・応神陵に次ぐ、我が国古墳4番目の大きさを持った前方後円墳。でかい古墳である。さすが日本で4番目。前回訪問
		したとき一回りしたが、Wifeとセガレの待つ車まで戻ってくるのに30分はかかった。それにしてもこんなに大きな古墳を、宮内
		庁はよく天皇陵や参考地に指定しなかったもんだ。もっとも、天皇陵が吉備ではちと困ることになるのかも。それに参考地でも、
		どうして吉備にという事になって説明できないのかもしれない。まぁそのおかげでマニアはこうして古墳の上まで登れるのだけれ
		ども。

 
古墳へは民家の軒先を抜けて行く。

		4,5世紀の吉備に強大な勢力が存在したことは、この古墳を見れば明らかだ。もしこの古墳が近畿にあれば間違いなく天皇陵だ
		ろうと思う。日本書紀には、吉備地方で反乱が起きた事がたびたび記録されている。しかも、雄略・清寧天皇の時代にそれは集中
		している。

 


		<雄略天皇7年8月条>
		吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや:一書には国造吉備臣山(くにのみやっこきびのおみやま))が天皇と女で
		争い、物部の兵士30人に一族70人とともに殺された。

		<雄略天皇7年是年条>
		吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)は任那に単身赴任中、雄略天皇が自分の妻「稚媛(わかひめ)」を犯した事を知
		り、新羅に援助を求める。天皇は新羅征伐を子供の弟君(おときみ)に命じるが、吉備上道臣田狭は弟君に謀反を勧める。

		<清寧天皇即位前紀>
		雄略天皇の死後、吉備稚媛の子「星川皇子」(ほしかわのみこ)は王位をねらう。しかし白髪(しらかの)皇子(後の清寧天皇)
		の部下、大伴室屋(おおとものむろや)らに焼き殺される。星川皇子を救おうとした吉備上道臣らは、援軍を送ろうとするが、星
		川皇子が殺されたことを知り引き返す。しかし白髪皇子は彼らを追い、その領地である山部(やまべ)を奪った。

 


		これらの日本書紀の記事からは、この時代の吉備の豪族が、天皇家と争えるほどの権力を持っていたという事が窺える。この造山
		古墳の大きさを見ても、大王の地位をねらっても不思議ではないような気がする。吉備は大和の勢力と盛んに姻戚関係を結ぶので
		あるが、これらの記事から推察するに、その関係を背景にして本当に大王の地位を狙っていたのかもしれないと思う。しかし、こ
		れらの事件を契機にして、やがて吉備は大和政権の前に屈服し、その勢力はそがれていったようである。

 


		前方部の途中から上に登れるようになっていて、頂上には神社がある。そばに風化した石棺が放置されているが、これはこの古墳
		ではなくどこか近くの古墳から運ばれたもののようである。この石棺の石材は、遠く阿蘇の火山灰でできた阿蘇石である事がわか
		っている。北九州との結びつきも、いかなるものであったのか興味は尽きない。

 



 

上二枚と下左の石片は、この石棺の蓋だった石という。

 

降りてきて「あ、こっちが表の入り口だったのか。」と西本さん。




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