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古代吉備王国の旅 鬼ノ城(きのじょう)







	「古代吉備王国の旅」第一弾は「鬼ノ城遺跡」である。山陽道から岡山道へ入り、「総社インター」で降りて、一路北へ向
	かう。吉備路の北端、吉備高原の南端にひときわ高い山がそびえている。標高403mの鬼城山(きじょうざん)である。
	眼下には古代吉備の中心地であった総社平野や、秀吉がせき止めて高松城を水浸しにした足守川流域の平野を望み、「吉備
	の津」も間近に見える。この山が古代朝鮮式山城だとして有名になったのは1970年代だ。その頃発掘調査が始まり、現
	在も調査は続行されている。
	これまでの調査でこの遺跡は、古代(5世紀〜7,8世紀あたりか?)に、一応何らかの防御を目的に築造された城郭であ
	ろうとされているが、文献上には記載がないため明治・大正時代までは城ではなく古代宗教遺跡と思われていた。




	古代の城郭は、「日本書紀」などの文献に記載が残る「朝鮮式山城」と、史書に記録のない「神籠石(こうごいし)式山城」
	の二つに大別できるが、鬼ノ城は記録にないという点では後者の神籠石式山城に含まれるが、その規模から見ると前者の朝
	鮮式山城ではないかと考えられている。これには有名な福岡県の水城(みずき)や大野城(おおのじょう)、香川県の屋島
	(やしま)城、大阪府の高安(たかやす)城などがあり、天智2年(663)の「白村江の戦い」に大和朝廷が負けた後、唐・
	新羅連合軍の日本侵攻に備えて西日本各地に山城が築かれた事が、日本書記天智4〜6年( 665〜667)の条に記録されてい
	る。記録にはないが、この時の朝鮮式山城と同種と考えられている古代山城は、岡山県の大廻小廻(おおめぐりこめぐり)
	山城や香川県の讃岐城山(きやま)城など、現在西日本を中心に16城確認されており、鬼ノ城もこうした古代山城のひと
	つではないかといわれているのである。

	一方神籠石式山城には、福岡県久留米市の高良山(こうらさん)神籠石や、山門郡瀬高町の女山(ぞやま)神護石などが知
	られているが、その築造の目的や時期などは、現在に至るも殆ど解明されていない。鬼ノ城も文献に記録がない事から古来
	より諸説紛々入りみだれ、地元には「朝鮮からきた温羅(うら)という人物がここに山城を築いて住んだ。」という伝承が
	残る。この伝承は「吉備津彦の温羅退治」として、やがては桃太郎伝説へとつながっていくのであるが、総社市周辺にはこ
	の温羅退治伝説にまつわる旧跡があちこちに残っている。
	(巻末の「吉備津彦神社」「吉備津神社」HPの、「桃太郎伝説」のコーナーを参照されたし。)
	垂仁天皇の頃、吉備国に温羅(うら)と呼ばれる鬼が居り、里に出ては乱暴を繰り返すため朝廷は吉備津彦命(きびつひこ
	のみこと)を退治に派遣した。この時温羅が篭った山が鬼ノ城で、吉備津彦命の放った矢が温羅の目に命中し、流れ出した
	血が血吸川(鬼城山から倉敷方面へ流れる川)となったとされる。この逸話を元に作られたのが岡山の「桃太郎物語」であ
	る。マスカットと並んで今も岡山は桃が名産であるが、物語と桃栽培はいずれが先だったのだろう?

 




	遺跡名: 鬼ノ城(鬼城山)
	所在地: 総社市奥坂・黒尾
	概要: 
	標高約350m〜400mの、鬼城山の頂上付近に石垣をめぐらして、城壁と思われる構造で築造した防護壁群。
	鬼ノ城は、すり鉢を伏せたような山の形をしており、城壁は山頂部の8合目〜9号目にかけて鉢巻き状に巡る。5世紀頃の
	築造という意見もあるが、7世紀後半から8世紀前半の古代山城という意見が一般的である。城壁は総延長約2.8km、
	面積は30haを超え、4つの城門と、6つの水門、全国的にも珍しい特殊な施設である角楼(かくろう)を持ち、これま
	での域内の発掘で、食料・武器の貯蔵用倉庫と思われる礎石建物跡や、烽火(のろし)場らしき跡、溜井(水くみ場)、鉄
	器製造を行っていたと思われる鍛冶炉の跡なども確認されている。現在は、平成17年の岡山国体に間に合わせるべく、発
	掘調査に基づいた復元工事が行われている。城門や角楼などが整備中であるが、今日は土曜日で工事は休みらしく、ゆっく
	りと見学することができた。山頂からは吉備路の野や山が一望に眺められる。古代山城としてはその規模、構造は我が国最
	大級といわれている。昭和61年3月25日、国指定史蹟になった。
	構造と規模: 
	城壁は、一段一列に並べ置いた列石の上に、土を少しづつ入れてつき固めた版築土塁で、平均幅約7m、推定高は約6mで
	ある。要所には堅固な高い石垣を築いている。版築土塁や高い石垣で築かれた城壁は,数m〜数十mの直線を単位とし,地
	形に応じて城内外へ「折れ」ていることに特徴がある。城壁で囲まれた城内は比較的平坦で約30ヘクタールという広大な
	もので,4つの谷を含んでいるため,谷部には排水の必要から水門が6ヶ所に設けられており、また、出入り口となる城門
	が4ヶ所にある。城内には,食品貯蔵庫と考えられる礎石建物跡やのろし場,溜井(水汲み場)もある。この他に城内には
	貯水池とみられる湿地が数ヶ所ある。さらに兵舎、各種の作業場なども予測されるが未発見である。
	地名の由来:
	鬼ノ城は,古代の正規の歴史書には登場しないが、後世の文献である鬼ノ城縁起などにでてくる。それによると「異国の鬼
	神が吉備国にやって来た,彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼はやがて備中国の新山(にいやま)に居城を構え、
	しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり婦女子を掠奪したので、人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼び,都へ行ってそ
	の暴状を訴えた・・・」。これが,一般に温羅伝承と呼ばれる説話で、地名もこれに由来している。
	(総社市教育委員会)



 


	鬼城山は城の生命線である水源も豊富であり、上の図でごらんいただくように城内にいくつもの池が存在している。飲料水
	・生活用水・防火用水など様々に使われる水は城にとってなくてはならないものだが鬼城山は水資源に恵まれた山城であり、
	滾々と湧き出す水は川となって城外へと流れている。この水を流すために、城壁には5箇所の水門が作られている。
	西門の傍に第1・第2水門、南門の傍に第3水門、東門の傍に第4水門、屏風折れの石垣脇に第5水門と並ぶ。いずれも雨
	樋のような構造で城壁を貫通しており、鬼ノ城の築城が精緻な土木技術と綿密な測量に基づいて行われた事を物語っている。
	これらの水門は現在も残っており見事に排水口として機能している。特に雨上がりには排水の様子がはっきりと見て取れる
	という。


	
	鬼ノ城遺跡の全体を見て歩くには一日二日では回りきれない。現地においてあるハイキングコースの地図も5,6種類あっ
	て、それぞれ5,6時間かかる。車があればとりあえず駐車場まではこれるが、そうでなければここまでも歩いてこなけれ
	ばならない。
	おまけにこの日はやたらと暑く、われわれも第2水門あたりまでは行ってみたかったが角楼、西門、第1展望台で早々に退
	散した。もう少し涼しくなって、ここだけを目的に2,3泊でじっくりと見学したい遺跡ではある。


 





西門方向へ歩き出してすぐの岩場を上りつめると、遠くに西門が見えてきた



西門の手前に角楼跡がある。古代の山城で「角楼」などという建物には初めてお目にかかった。

 


	<角楼跡>
	かつてここには,裏門的な門跡の存在が推定されていたが,平成8年度の発掘調査で城門ではなく,特殊な遺構である事が
	判明した。張り出し部をもつこの角楼は、城壁の大きな屈折点に築かれ、城外側に向かって凸状に突出している。ここは南
	北両方から入り込んだ谷の頭部にあたる背面側の要地で、正面側約13m、奥行側約4mが前方へ突出した長形の張り出し
	部が城壁に付設されている。張り出し部の下部は、推定高さ約3mの石垣とし、その上部は土積みであったようで、張り出
	し部の本来の高さは約5m以上と推定される。石垣の間にはほぼ4m間隔で、一辺約50cmの角柱が立つ。張り出し部の外
	側には、通路のような幅1.5mの敷石が巡っており、また、城内側には角楼への昇降のための石段もつけられている。
	角楼の機能は、背面からの攻撃に備えるとともに、城壁の死角をなくし、突出部から横矢で攻撃できるなど、西門の防御を
	高めるために築かれたと考えられる。なお,角楼の存在,石垣の間に立つ柱,敷石が巡っていることは,日本の古代山城で
	は初の発見例である。





上は古代から残る石積みである。


	角楼は正面幅13m、奥行4mの大きさと推測され、基台に高さ3mの石垣を持つ櫓である。この石垣外周には4m間隔で
	角柱が6本埋めこまれていたようで、基台の上にかなり大規模な平面空間が用意されていた事が推定される。この空間は武
	者溜まりのようなものだったと思われ、西門と角楼が連携して敵の防備にあたる重要な拠点となっていた事が推測できる。
	こうした角楼は朝鮮半島の山城における「雉」と同様の防御施設で、日本の古代山城では初めて確認された遺構である。
	「朝鮮式山城」といわれるごとく、鬼ノ城をはじめとして各地の山城が、百済からの亡命技術者の知識を以って築城された
	可能性は高い。







 


	<西門跡>
	平成8年度の調査で新たに発見された城門である。南門と並び鬼ノ城最大級の西門は、発掘データを下に復元すると、正面
	の門の床から棟まで13m、城壁の基礎からは15mにもなる。奥行は8.3mの大規模な城門で、中央1間が開口する。
	内部は3階建てとなり、各階は1階が門扉のあり石敷きの通路、2階は南北に連なる城壁の連絡路、3階は見張りおよび戦
	闘の場という役割が考えられる。この門は、12本柱で構成される堀立柱城門で,開口部の床面は大きな石を敷いており、
	その両側に6本の角柱が立つ。門扉のつく柱は一辺最大60cmもあり、これに精巧な加工をした門礎を添わせている。門礎
	には方立・軸摺穴・蹴放しが刻まれている。両側の門礎とも原位置を保っていることから、開口部は間口約4mで、うち3
	mが出入口となる。扉は内開きである。
	扉を開け、4段の石段を上がると城内となるが、ほぼ3m間隔で4本の柱が立っている。この柱は、城内の目隠しと敵兵を
	分散させる板塀の柱と思われ、大野城(福岡県)大宰府口城門でも見つかっている。






	城門の礎石には大型建物を建てた痕跡がみられ、古代期での建築技術を推量させる。東西南北の各門は重厚な建物で守られ、
	かつ厳重な防備が為されていたようで古代の戦術と併せて考慮すると、当時の軍事理論を解明する重要な手がかりともなっ
	ている。




	鬼ノ城は鬼城山の8合目〜9合目、急斜面から緩斜面への傾斜変換点をぐるりと城壁で囲い、この内側の平面を城域として
	いる。城壁は土塁と石垣を織り交ぜて築かれており、全長2.8kmにも及び城郭を完全に一周、平均幅7m・平均高6m
	の頑強なものである。上の写真で、がけの突端から復元されてきた城壁は、下の写真の西門へとつながる。
	この城壁の4箇所、城の東西南北に城門が設置されているが、これらはいずれも石垣の門礎で固められ、床面も自然石を敷
	き詰めた頑丈なものである。急ごしらえの簡易な木門などではなかった事が確認されている。
	城壁の外正面に対して通路は開かれてはおらず、城壁に沿った横方向への進入路となるため、戦国時代の城郭における虎口
	構造と同じく、敵の直線的侵入を阻むと同時に城の内部を直接俯瞰できない効果を発揮している。城の北東端は「屏風折れ
	の石垣」と呼ばれ、岩肌が露出する崖淵の直上に築かれた石垣で麓からも良く見える。




	来年の国体に間に合わせようと、現在突貫工事が行われている。古代城郭公園としての整備が進められているようだが、し
	かしここまで登ってくる車道もまだ狭く、観光バスなどは離合できないのでまだまだ整備には時間を要するものと思われる。
	しかし復元想像図に見られるような形になった暁には、雄大で広大な城郭が出現することを思うと、ぜひもう一度訪れてみ
	たいものである。




	このあたりから吉備路の旧跡(国分寺や古墳群)を一望できる。すばらしい眺めである。山の上で当然ながらジュース等の
	自動販売機は無いので、夏場には特に飲み物の用意はお忘れなく。眼下は総社平野が広がり、晴天には四国が見えるという。




	総社は備中国の国府が置かれた場所で、眼下には全国4位の規模を誇る造山古墳や9位の作山古墳が見える。また総社は陸
	路の要所であるだけでなく、瀬戸内海交通の要所でもあり、当時はまだ児島半島がなく海岸線は随分と内陸側へ入りこんだ
	場所にあったとされている。鬼城山は標高403m、吉備高原の最南端に位置する山で、ここから南は一面に岡山平野が広
	がっている。山の周囲は切り立った花崗岩の絶壁で、平野側の斜度は約50度、東側斜面に至っては70度もあるが、山頂
	部一帯はほぼ平面と言ってもよいくらいになだらかな高原となっている。




	ここが鬼城山の頂上で第一展望台である。最高所である鬼城山頂は西門・角楼のすぐ傍にあり、おそらくは烽火台として使
	われたと思われる。見てきたような城壁・門・角楼で囲われた城内は広々とした高原状平面だが、ここに数万の兵士を収納
	する事が可能だったのだろうか。もしここが唐・新羅軍に対する防御施設だとすれば、ここに立てこもって守るべき物は何
	だったのだろう。連合軍はこんな山城にこもっている兵たちなど見向きもせず一路大和平野か近江京をめざすのではなかろ
	うか。
	しかし、ここが戦争を意識して作られた施設なのは明らかだし、何よりもこんな山上に千数百年も前に、驚くべき城壁を築
	いたその腕力には驚かされる。標高400mの山頂に、巨大な石垣や土塁を約3kmに渡って築くのは、国家権力を持って
	するしかないようにも思える。城の中央部には礎石を用いて作られた建物が7棟あったそうで、現在もこの礎石群は残って
	いる。これは鬼ノ城が恒久的に使用される目的を持っていたことを示している。





上左のコンクリート建物は、角楼の裏側である。









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