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綏靖天皇・高丘宮跡
2004.May.1 歴史倶楽部第83回例会


	九品寺を出て、やや大きい一軒家を右に見ながら道なりに歩くと、右側に古いバスの車体があり、更に行くと看板
	が立っていて、葛城の道と大和三山についての説明がある。



 



駒形大重神社・九品寺で、我々が比定した大和三山は位置が違っていた。全く思いこみほど怖いものはない。

 


	更にそのまま真っ直ぐに進むと道は林の中へ入ってゆくが、その手前に休憩所が設置されている。ここでしばしの
	休息。今日は暑いのでお茶があっという間に無くなってしまう。しかし前回来たときに比べれば、ずいぶんと看板
	や標識が整備されている。と、思ったら誰かが、「この前は雨の中を歩いたから標識やら気づかんかったんやで」
	と言う。そうかもしれない。




	<綏靖天皇高丘宮跡伝承地>

	綏靖天皇は神武に嗣ぐ第2代の天皇ということになっているが、実在したかどうか疑問視されている。しかし前述
	したように、この葛城の地に、いわゆる「欠史八代」に関する伝承や旧跡が多いのはどうしても合点がいかない。
	後世の人々が日本書紀を読んで、後から伝承や旧跡を作ったとはとても思えないのだ。
	孝昭、孝安、孝霊、孝元と「孝」のつく天皇陵は御所市から橿原市にかけて存在するし、その宮跡も御所市にある。
	またこの辺りは、葛城氏から出て仁徳天皇の后となった「磐之媛命(いわのひめのみこと)の実家があった所とも
	されている。姫が山背の綴喜の宮にいた時に詠んだ「あおによし奈良を過ぎ 小盾倭過ぎ わが見欲りし国は 葛
	城高宮吾家のあたり」という歌が残っている。
	ことほど左様に、この地が古代天皇家と深い関わりがあった事はほぼ確実であるし、葛城王朝が存在していたとい
	う鳥越憲三郎氏の推察は、私にはけだし慧眼のように思える。

 







 



	ここから道は竹林を抜けて田圃のあぜ道になり、下りになっている。右へとってゆくと森脇という集落に入り、車
	道になる。集落を抜けると道は左へ大きくカーブして一言主神社の参道に合流する。


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