駅から歩き出してすぐ、「船戸」という部落の岩船小学校の手前の広場で、平田さんが附近の地形を説明してくれる。交野のシ ンボル交野山。相場を大阪の北浜へ知らせた「旗振山」。「竜王山」等々。「船戸」は、川や海岸での渡し場(舟渡:ふなど) を意味するのと、ほかに船戸の神、すなわち道祖神のことをいうことがあり、森の船戸は渡し場でなく道祖神のことだともいう が、磐船と言い船戸と言い、水に関係しているような気もする。
岩船小学校の東側の道を北へ行くと、府道久御山線と交差する。この交差点の下を川が流れている。目の前に交野ドームが見え ており、そこから川沿いに右へ曲がると交野高校の桜並木である。満開時の写真を見ると見事なものだが、今日はまだ3分咲き くらいだった。この先に「車塚古墳」がある。
上、柿の木(だと思う)の畑の下が「西車塚古墳」(私有地)だそうだ。ここは発掘されていない。下が昭和47年に発掘され た「交野東車塚古墳」。フェンスで囲まれた緑地として保存されている。
交野車塚古墳群 東車塚古墳群は交野市南野10番地にある。現在の府立交野高校の校地内と北側の古墳群を言う。昭和47年、交野高校が建設 されることになり、事前に試掘され発見された。5世紀初頭から6世紀頃の5基の古墳群からなる。交野東車塚南古墳は、他で は類例のない四隅が四角の周溝を有する円墳で、その形から「日の丸古墳」と言われる。北辺27.5m、南辺26.5m、東 辺27.4m、西辺28.8m、その中央に直径22.4mの円墳がある。また、東車塚古墳は、5世紀初頭の時期のものと考 えられており、周辺域でも確認例のない前方後方墳(墳長65m、後方部の高さ約6m、後方部幅33.55m)で、筒型銅器・ 巴形銅器・石製腕飾類など多数の遺物が出土している。中でも、単甲は襟付三角板革短甲と呼ばれるタイプの一種で、全国でも 20例ほどしか出土していない。
大阪府教育委員会による発掘調査で、円墳4基が校舎建設予定地から出現した。中近世には水田として利用されており、その為 か、墳丘上部は削り取られてしまっていたが、この円墳4基、前方後方墳1基、方墳1基(民有地)の合計6基から成り立つ古 墳群は車塚古墳群と名付けられ、広く知られる事になった。その後、円墳4基のうち、墳丘部が円形で周溝部が正方形の方形と いう珍しい古墳を持つ東車塚南古墳は、「日の丸古墳」と呼ばれて盛り土をして築造時の姿に戻した上、更に上に土を盛ってテ ニスコートの下に保存される事になった。それ以外の3基の古墳は校舎建設に伴い消滅してしまった。
昭和63年から平成元年にかけて、交野市の緑地整備事業が行われ、車塚古墳群の東車塚古墳が調査された。その結果、東車塚 古墳は全長58m、前方部25m以上、後方部33mの前方後方墳で、2段のテラス面が検出され、3段築成であったことが推 定された。2段目のテラスには10cm間隔で円筒埴輪が並べられていた跡があった。内部には割竹形木棺の上に、箱式木棺2 棺が並列しておかれていた。割竹形木棺は、長さが8.1m、幅0.8mという巨大なものだった。水銀朱が棺底を全面的に覆 い、その上に、珠類、刀剣類、鏡3面(1面は四乳四獣鏡、1面は獣形鏡、1面は盤龍鏡)、巴形銅器、筒型銅器、三角板革綴 襟付短甲、三角板革綴衝角付冑、石釧、琴柱形石製品、鉄製農耕具等々が遺物として残っていた。その配列から被葬者は複数で あろうと推定された。また木棺は粘土かくで包まれていた。
金網越しに見る、東車塚古墳の「前方後方墳」。石でその形を示しているが、前方部だったか後方部だったか忘れてしまった。 「日の丸古墳」は、この古墳のすぐ下にあるが、今は高校のテニスコートになっている。 ここから出土の、粘土郭に包まれた木棺は長さが8m余りで、平田さんは実際に発掘作業に携わったらしい。平田さんは「日本 一の木棺」と呼んでいて、発掘当時の写真を何枚か持っていて見せてくれたが、全部自分で写したという事だった。