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天理参考館 −世界の考古美術−

布留(ふる)遺跡 歴史倶楽部第95回例会 2005.4.3









	布留の祭場(復元) 布留アラケ地区 古墳時代中期

	布留遺跡の中の布留(アラケ)地区では、多くの円筒埴輪や土器などが出土した。埴輪には胴部のすかしに、半円・
	三角・巴など特殊な形にくりぬいたものがあった。同時に出土した遺物に、祭祀用の滑石製の玉類や、土師器高杯・
	小型壺などがあり、出土地は廻りの地形などから古墳ではないと判断されたため、祭場と考えられている。
	埴輪は祭場を区画するために立てられていたのではないかと考えられる。中央の机は、布留遺跡から出土した古墳時
	代の机が復元されている。



 

解説して頂いた学芸員のオジサン。この復元祭場の廻りに、出土した遺物が展示されている。

 


	縄文土器 縄文時代中期〜後期 布留遺跡(愛垣内)地区出土

	布留遺跡には、縄文時代早期から晩期にかけて継続的にひとびとが居住していた。展示されている土器は、竪穴住居
	跡や土杭などから出土した。同時に石棒やヒスイ製の大珠、石鏃などが出土した。口縁部が波打つ独特の形で、胴部
	には縞文帯がほどこされた華麗なものもある。近畿地方で、こうした時期の縄文土器の全形が復元できる例は少ない。



 

 



 





 



 

 

 

 



 






	考古学では布留式土器という言葉をよく目にする。ここで出土した土器が、近畿地方における土器編年の基準となって
	いるのだ。邪馬台国時代の土器として近畿では、庄内式、布留式、あるいは纏向式がよく知られている。これらの土器
	の年代を元に、各地の遺跡や古墳の年代が決定される。従って、これらの土器の年代を使って、遺跡や古墳を古い年代
	にもっていったり、逆に新しくしたりということが行われる。つまり普遍的で基準となる土器には違いないが、各研究
	者によってその年代編成(編年)は大きく異なったりする。邪馬台国九州説論者と近畿説論者では、その年代には大き
	な隔たりがある。しかし、近畿地方において一時期大きく普及した形式の土器であることは間違いない。九州なら西新
	式、東海なら廻間式というように、吉備・河内・大和・東海(濃尾平野)・北陸(加賀)などの地域によりそれぞれ基準と
	なる土器がある。特に九州では、西新式が出るか出ないかで、その遺跡が邪馬台国の時代のものかどうかを決める決め
	手になる。




	そもそも土器の製作年代の決定は、今のところ非常に困難である。また、異なった地域の土器の比較もかなり難しい。
	上の地層から出た土器は、その下の土器より新しい、という大原則を用いて、相対的に年代の編年を行っているので、
	最初の(あるいはどこかの時点での)時期をどこに設定するかによって、その全体の年代が大きくずれ込むのは容易に
	推測できる。
	
 


	布留遺跡は天理市周辺では最大の遺跡である。旧石器時代から現代まで続く複合遺跡で、布留川をはさんで東西約2km、
	南北2kmにもおよぶ。しかし、人々が継続して集落を営むようになるのは弥生時代の終末からである。古墳時代になる
	と首長の館・工房・祭場などが設けられるなど、当時の奈良盆地でも重要な町であったろう。彼らの墓が遺跡の南と北
	に築かれた。南のものは杣之内(そまのうち)古墳群、北のものは石上(いそのかみ)・豊田(とよだ)古墳群と呼んでいる。
	古墳時代の繁栄は古代氏族である物部氏(もののべし)によるものと考えられている。律令時代以降は都が奈良盆地を離
	れると、次第にさびれていった。ここには、布留遺跡およびその周辺で行われた発掘調査で出土した主要な遺物と、布
	留遺跡でみつかった埴輪などから、古墳時代の祭場の様子が復元されている。

	尚、現在、布留遺跡は全て天理教関係施設の下になっている。説明板もなく、遺跡の面影を探ろうとしても何もない。


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