Music: Memories in Sanfrancisco

2000.4.15(土) 兵庫県加古川市

 

 

鶴林寺
聖徳太子開創の寺、兵庫県加古川市の鶴林寺の説明板。開創当時からの歴史が書かれている。



		鶴林寺縁起

		鶴林寺と聖徳太子 

		鶴林寺がいつ、どのようにしてつくられたかは、実はよく分からない部分が多い。手掛かりとなる古い瓦や
		礎石などは発見されておらず、播磨一円のこのことを書いた峰相記にも、なぜか記録がない。しかし、記録
		としては江戸時代のものといいわれる「鶴林寺縁起」に、つぎのような歴史がうかがえる。

		蘇我氏と物部氏の争いを避け、高麗出身の僧・恵便(えべん)は播磨の地に身を隠していた。聖徳太子はそ
		の恵便の教えを受けるためにわざわざ播磨を訪ね、後に3間4面の精舎を建立させ「刀田山四天王聖霊院」
		と名付けられる。崇峻天皇2年(589年)、これが鶴林寺の始まりとされている。
		その後、養老2年(718年)、武蔵の大目「身人部春則」が太子の遺徳を顕彰するため、七堂伽藍を建立した。
		そして、天永三(1112)年に寺号を「鶴林寺」と名を改めている。太子堂はこの年の建立と伝えられて
		いる。太子信仰の高まりとともに鎌倉・室町時代に最盛期を迎え、寺坊は三十数力坊、寺領2万5千石もあ
		ったという。鶴林寺の宝物館には今も、雅楽に使う大きな太鼓の一部が展示されているが、当時は、太子の
		命日には雅楽が奏され、舞楽が演じられたという。
		ところが、信長、秀吉による宗教弾圧と続く江戸時代の政策で8カ坊、117石に激減し、明治維新の排仏
		棄釈など、時代の荒波を潜り抜け、今日、宝生院、浄心院、真光院の3カ寺、15,000坪の鶴林寺とな
		った。

		広がった法隆寺文化

		再び遡って考えてみるが、恵便を太子がどのように扱ったかもよく分からない。ただ、蘇我・物部氏の争い
		が終わり、聖徳太子はさらに仏教を深めるために朝鮮半島から高僧を招く。そして、恵便は播磨に帰り、実
		践僧として各地に寺を建てたのではないだろうか。
		続日本書紀に「印南野臣」だった牟射志(むさし)が太子の馬司となったために「馬養造」に変わったとい
		うくだりがあり、この地域が太子と近い関係だったことが分かる。また、西条山手の国指定史跡の行者塚古
		墳から日本で最古級の鉄製の馬のくつわや帯金具が出てきたことから、大陸文化がいち早く入った先進地で
		あり、中央に強い発言権を持つ豪族がいたことも分かる。
		聖徳太子は、法華経、勝鬘経(しょうまんきょう)、維摩経の三経義疏を残し、うち法華経は中国の経典の
		解釈を越えるものと評価されている。また太子が天皇に講義をしたところ、いたく感激され、天皇が播磨の
		水田百町を授けたと日本書紀にある。
		加古川市内には、法隆寺と同じ伽藍(がらん)配置を持つ寺院があった。七世紀末から九世紀にかけての西
		条廃寺、八世紀前半から九世紀の石守廃寺、七世紀末から九世紀にかけての中西廃寺などで、法隆寺文化の
		広がりがうかがえる。しかしそれらはすべて九世紀で一度終わっている。それは868年の播磨大地震です
		べて倒壊したからであろう。

		平安時代に再興?

		ところで、鶴林寺がその地震までどこにあったのだろうか。別の場所にあったのか、ここにあったのかを特
		定することはできない。
		しかし、本堂の重要文化財・薬師如来と両脇侍像や、厨子(ずし)の下の土壇、十一面観音立像などは平安
		前期のものであり、太子堂や常行堂で最近の赤外線調査、多くの聖徳太子伝などの史料を照らし合わせると、
		平安前期に今の場所に平安本堂があったようだ。
		また聖徳太子が、天台大師・智の師匠の南岳慧思禅師の転生だとされたために法華経を深めたことなどが、
		鑑真の弟子の思託が著した「上宮皇太子菩薩伝」にあり、最澄も太子が開いた四天王寺を非常に大切にした。
		このような太子信仰と天台宗が強く結びついて、鶴林寺は、再建されたのではないかと考えられる。
		【鶴林寺ホームページより】

 

 

鶴林寺三重の塔

中門を入って左手にそびえる三重の塔。朱色が鮮やかで、どっしりとした安定感は、法隆寺の五重塔に劣らない。


 

金剛力士像(阿像・吽像)

中門両脇には、金剛力士像がある。中門に向かって右手が金剛力士像・阿像で、
左手が吽像である。法隆寺の金剛力士像とよくにている。


 

鶴林寺講堂

中門を入って正面に位置している講堂。落ちつきと安定感から、播磨の法隆寺と呼ばれている。


邪馬台国大研究・ホームページ /歴史倶楽部・番外編/ 鶴林寺