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伊賀上野城
歴史倶楽部第73回例会






 



 


		京都府加茂町に集合した今回の例会は、まず恭仁京跡・山城の国国分寺跡を見てここへ直行した。恭仁京跡から163号線を
		木津川沿いに東へ向かうとやがて南山城村を抜けて三重県へ入る。伊賀と言えば甲賀と並んで「忍者の里」で有名だ。子供の
		頃は猿飛佐助や霧隠才蔵、伊賀の影丸などに熱中したものだ。そのかっての「伊賀の国」の中心地が、現在の伊賀上野市であ
		る。伊賀上野城は市の北部にある。この地は、京都・奈良から東海道に通ずる交通の要衝で、伊賀上野城は、盆地の突き出た
		台地上に位置している。

 




		天正9年(1581)、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)が伊賀に侵攻し、伊賀の地は焦土と化した。「天正伊賀の乱」である。
		伊賀を平定した織田信雄は、家臣滝川雄利に伊賀の守護を命じ、雄利はその昔、平清盛が建立したと伝えられる平楽寺址に築
		城を開始する。これが伊賀上野城の始まりである。翌天正10年(1582)、本能寺の変で信長が没し、天下をおさめた羽柴秀吉
		によって滝川雄利は追放され、天正13年(1585)、筒井順慶の養子・定次が豊臣秀吉から羽柴の姓を賜って、大和郡山から
		この地に移り、上野城主となる。定次は三層の天守を構えて、城の大改修を行なった。



 


		慶長5年(1600)の関ケ原の合戦に勝った徳川家康は、慶長13年(1608)筒井定次を改易し、子飼いの藤堂高虎に伊賀・伊勢
		両国を与えた。歴史マニアなら藤堂高虎が築城の名人だという事はよくご存知のはずである。高虎は上野城の改修を行い、豊
		臣氏討伐に備えて堀を深くし、城を30mの石垣で囲み、5層の天守を築いた。ところがその天守閣が、竣工前に暴風雨のた
		め倒壊する。以来、豊臣氏は滅亡し幕府の武家諸法度によって諸大名の城普請が禁止されたこともあり、天守は建てられない
		まま明治維新をむかえる。

 

 


		現在の上野城は、昭和10年に川崎克氏が私財を投じて、本来五層であった天守閣を木造三層にして復興した建物である。
		高さ日本一(30m)を誇り、内堀の高石垣は高虎が築いたもので、昭和に建てられた木造の天守閣としても最古であり、別
		名「白鳳城」とも呼ばれた天守閣は、美しいその姿を今に残している。城の内部には、武具、民族資料、各名城の写真、伊賀
		焼物等々が展示されている。

		【川崎 克(かわさき かつ)】 1880.12.28〜1949.2.3。三重県出身。
		本名は川崎克(こく)。1901年日本法律学校卒業。東京外語学校でフランス語を学ぶ。当時東京市長だった尾崎行雄に私淑し、
		03年には東京市書記となる。06年日本新聞社入社。翌07年朝鮮に渡り、元山時事新報主幹、元山民団長となる。12年尾
		崎に従い憲政擁護運動に参加。15年中正会より当選。16年には憲政会結成に参加する。24年陸軍参与官、25年逓信参与
		官。29年には司法政務次官。37年民政党総務。政調会長を務める。41年帝国議会で大政翼賛会の予算削減を主張し、翼賛
		議員同盟に対抗して鳩山一郎、安藤正純らと同交会を結成。42年に翼賛選挙では非推薦で当選する。大日本貿易振興会会長、
		泰東書道院総務長。伊賀上野城の再建を計画する。戦後公職追放。日本進歩党常議員会長。 
		(三重県人物案内より)



 


		<藤堂良重の兜> 
		豊臣秀吉から藤堂高虎に拝領された物を、さらに高虎が一族の藤堂良重に譲った兜。彼はそれをかぶって大坂夏の陣に出陣し、
		若江の戦いで戦死した。依頼この兜はその藤堂家の家宝となり、長く城下の藤堂家(高虎家ではない。)にあった。

 

 


		伊賀は甲賀とともに忍者の里として有名である。伊賀上野城を築くにあたって藤堂高虎は、「天下の名城に仕上げてみせる」
		と豪語し、伊賀忍者を58ヵ国、148城に忍ばせ、要害図を写させて築城の参考にしたとの言い伝えがある。伊賀の国は、
		古くから貴族や荘園が多く土豪たちがひしめき合っていた。戦国時代には土豪が連合し局地戦を展開していたので、高虎はこ
		の土豪と手を組み、そして土豪の中から生まれたのが、いわゆる伊賀忍者だと言う。しかしこれは作り話のようで、高虎は既
		に築城の名手として宇和島城や今治城を築き、江戸城の普請にも参加して名を挙げており、今更諸国の城普請を参考にするま
		でも無かっただろう。しかし、そんな城が強風で倒壊するとは、ご愛嬌と言うしかない。この城は、黒沢明監督の映画「影武
		者」のクライマックスのロケ地として使用された。



 



 
		
		天井の絵や揮毫を寄贈した明治・大正・昭和初期の著名人達(下)。そうそうたるメンバーが名を連ねているが、どれが誰のものか
		殆ど分からなかった。この上野城を復興した「川崎克氏」の名前もある。思うに、川崎氏の政治力と人脈が、これだけの名だたるメ
		ンバーからの寄贈をなし得たのだろうと思われる。











 

さすがは忍者の里にある城である。上から覗き込んだ限りでは横穴は見えなかった。

 







		
		伊賀上野は松尾芭蕉の生地としても有名だ。今回は芭蕉ゆかりの地は時間が無く訪れなかったが、何十年か前、一度来たこと
		がある。上の写真は、城のある上野公園内にある、松尾芭蕉の旅姿をかたどった八角堂の「俳聖殿」である。芭蕉よかりの資
		料等が収容されており、扉は年に1回だけ開かれる。




鍵屋の辻


		四つ辻に立つ道標には「ひだりならへ みぎいせみち」とあり、伊勢街道と奈良街道の分岐点となっており、道標とは対角線
		の辻に大きな仇討ち顕彰碑がたっている。下の写真を右手へ上がっていくと上野城である。




		伊賀上野の「鍵屋の辻」は、荒木又右衛門の36人斬りで有名である。しかし我々の世代までくらいなら、講談や少年雑誌、
		東映や大映の時代劇で、荒木又右衛門という名前は知っているが、もう若い世代はこの名前も、まして「鍵屋の辻」も知って
		いる者は少ない。36人斬りは完全に後世の脚色であるが、日本三大仇討話くらいは知っていてほしいものだ。


		<鍵屋の辻 決闘譚>
		寛永7年(1630)7月11日の夜、備前国岡山藩士河合又五郎が、同僚の渡辺源太夫を殺害して、行方をくらましたことから
		この話は始まっている。そもそも、渡辺源太夫は時の岡山藩主・池田忠雄(ただかつ)の寵愛を受けていたのだが、この源太
		夫に河合又五郎が横恋慕し、源太夫に関係を迫ったものの源太夫から拒否され、逆上した又五郎はこれを殺害してしまうので
		ある。今の感覚で言えば完全に同性愛だが、江戸時代の男色嗜好はちょっと意味合いが現代とは異なるようだ。避妊方法が確
		立されていなかった当時では、藩主達はできた子供の養子縁組先を見つけるのは一大事だったため、手っ取り早いSexの処理方
		法として、女ではなく小姓や若侍を寵童として可愛がることがよくあった。時に、河合又五郎19歳、渡辺源太夫17歳であ
		った。

 


		藩主池田忠雄はその後、又五郎が江戸で、直参の旗本安藤冶左衛門方にかくまわれていることを聞き、早速幕府に訴え出て又
		五郎の引き渡しを迫り、一時大名家と旗本家の対立にまで発展しそうになるが、突然肝心の忠雄が死去したため、幕府は又五
		郎を江戸追放とする。ここで困ったのが、源太夫の兄の渡辺数馬である。弟の仇討を果たさない限り、岡山藩に帰参出仕はか
		なわない。しかし数馬は、武士ではあるが剣に全く自信がなく、そこで彼は姉の夫である剣豪・荒木又右衛門に助けを求める、
		という事になる。大和国郡山藩に仕えていた姉婿荒木又右衛門に助太刀を頼み、又五郎の行方を追いもとめて数馬は旅立った。

		荒木又右衛門は伊賀上野の生まれで、幼名は菊水丑之助と言い、元服後郡山藩で250石を貰い剣術指南をしていた。愛刀は
		来伊賀守金道という名刀として知られていたが、この鍵屋の辻の決闘でそれを折ってしまう。又右衛門は数馬から助太刀を求
		められると直ちに郡山藩を辞して、河合又五郎の行方を探して一緒に江戸から東海道を訪ね歩き、やがて又五郎らが寛永11
		年11月6日、上野に来るという情報をつかむ。翌7日、数馬、又右衛門、弟子の岩本孫右衛門・河合武右衛門の主従4人は、
		伊賀上野城下西のはずれの「鍵屋ノ辻」にある茶屋「萬屋」で待ち伏せていた。又五郎は、叔父の元郡山藩士河合甚左衛門、
		妹婿の桜井半兵衛ら警護陣の一行11人と鍵屋ノ辻にさしかかる。




		荒木又右衛門は一行の前に立ちふさがり、仇討の主意を伝え斬りかかる。又右衛門は、河合甚左衛門、桜井半兵衛とわたりあ
		ってこれを討ちとるが、まだ又五郎と数馬の勝負はついておらず、かけつけた又右衛門は脇から数馬を叱咤した。しかし数馬
		と又五郎は、いずれも真剣勝負などは初めての経験で、お互い、にらみ合い逃げまどいで、戦いは延々5時間にも及んだが、
		こればかりは又右衛門が手を下すわけにはいかない。昼過ぎになって、やっとのことで数馬の刀が又五郎の腕に傷を負わせた
		が、二人とももう疲れ果てて動けず、ラチがあかないとみた又右衛門が、数馬を抱きかかえて又五郎の胸に刀を突き刺した。
		ここに決闘は終了し、めでたく仇討ちの本懐を遂げた。

		検死に立会った藤堂藩は、作法にならい数馬、又右衛門の武勇を讃えるとともに、又五郎の霊を懇ろに弔った。世にこの仇討
		ちを「伊賀越・鍵屋ノ辻の決闘」と呼び、やがて「36人斬り」と誇張された。死者は、数馬側1名、又五郎側4名で、早朝
		から6時間程経っていた。又五郎側の他の面々は、郡山藩で武芸指南だった河合甚左衛門が荒木又右衛門に斬られたのを見て、
		全員一目散に逃げ出しており、荒木又右衛門が36人斬りたくても、そこにはそんそんな人数はいなかったわけで、どういう
		経緯で36人も斬った事になったのか。

 


		事件発生から鍵屋の辻で仇討ち成就するまでの4年余りの間に、岡山藩は鳥取にお国変えになっていた。そこで、渡辺数馬は
		荒木又右衛門ともども鳥取へ帰参し新しい藩主に顛末を報告した。そして5年後に二人とも復職がかなう。しかしその復職の
		わずか16日後、寛永16年8月28日、鳥取藩は荒木又右衛門の死亡を発表した。あまりに早い死をめぐって、実際に死亡
		したのか、それとも何か他の原因理由があったのか、色々な憶測が飛んでいる。一説では、又右衛門は元の郡山に戻ったのだ
		が、郡山に戻るための公式な口実がないので、死んだことにして身柄を自由にしたのではないか、とも言われるが、公式な墓
		は鳥取市にある。(第50回例会、<鳥取の旅>を参照されたし。)


		「鍵屋の辻公園」の一角にある「数馬茶屋」。蕎麦が名物らしいが、この日は各自昼食持参だったので資料館横の大池の辺で
		昼食となる。

		一連の鍵屋の辻騒動をみてくると、江戸時代の斬り合いがTVや映画のように格好良いものではない事がよく理解できる。
		太平の世で真剣勝負などしたことの無い侍たちの方がはるかに多かった時代にあっては、命をかけて殺し合う作業が4、5時
		間かかったのも納得できる。どちらも死ぬのはいやである。必死になって当たり前だ。一目散に逃げ出した連中の気持ちもよ
		く分かる。「葉隠れ」や「武士道精神」はこれら正直な気持ちを押し殺し、あくまでも面子と体裁を重視した極めて非人間的
		な教えである。これを「美学」と呼ぶのは少々狂信的な気もするが、しかし全くそれが無いのでは、武士の武士たる存在理由
		もなくなる。江戸時代の大多数の武士達は、大いなるそのジレンマのなかに暮らしていたと言えるが、それを露呈させるよう
		な場面に立ち至った武士たちは極めて少数だったに違いない。


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