Music: a girl

花盛りの彦根城
2004.4.3 滋賀県彦根市







 
JR彦根駅前に立つ「井伊直政」像


	井伊家は家格として譜代筆頭だが、いわゆる三河譜代ではなく、遠江井伊谷の豪族でもともとは今川義元の臣
	であった。桶狭間での今川家瓦解後、徳川の臣となる。
	井伊家はもともと遠江国(静岡県)井伊谷に住んで井伊氏を称した土地の土豪であったという。藤原冬嗣の6
	代目を名乗る共資が井伊姓を名乗ったとされる。井伊家は井伊谷に一城を構えて、早くから頭角をあらわして
	いたことは「見聞諸家紋」にも取り上げられて「井」の紋が掲載されていることでもわかる。以後、土地の豪
	族として権勢を広げるが、相次ぐ戦乱の中、一族の多くはみな非業の死を遂げていく。その中で生き残った虎
	松(後の初代彦根藩主・井伊直政)が15歳の時、引馬野城を落として浜松城と名を改めたばかりの徳川家康
	と対面する。


駅から城へ行く途中にある、和風作りの案内所兼休憩所のような所。右側が彦根市役所である。




	戦国時代、駿河から遠江にかけては今川氏の勢力圏であった。井伊氏も代々今川氏に仕えていたが直親の時、
	謀叛の嫌疑をかけられ今川氏直に殺され、領地を没収されたた。父直親がざん言によって今川氏真に滅ばされ
	たとき、虎松はまだ2歳であった。助命はなったが、不運な生活を余儀なくされ、そして15歳の時、徳川家
	康と対面するのである。虎松が自分に内通したため惨殺された直親の実子であることを家康は知り、近習とし
	て召し抱えて、名を井伊万千代と改めさせる。天正4年(1576)、武田勝頼軍との遠州芝原の陣を初陣として、
	三河譜代の武将にまじって、常に家康の近くにあり活躍する。直政は家康から甲斐武田の遺臣を授かり、木俣、
	西郷、椋原の三家老とその他の武田遺臣が直政に配属され、4万石を領する一隊の将となった。これによって
	井伊軍の軍事力は増強し、武田軍団の象徴である「赤備え」を受け継ぎ、「井伊の赤備軍団」は次第に勇名を
	知られることになる。直政は「井伊の赤備え」で戦場に威力を示したが、この赤備えは直政を中心に甲斐武田
	氏の遺臣らを添えて作り上げられたものであった。赤備えは、小牧・長久手の戦で秀吉軍をひるませ、直政に
	「赤鬼」の異名を残した。





 




	その後天正18年(1590)、小田原城攻めにも活躍して上野国(こうずけのくに)箕輪に、徳川家臣団最高の
	12万石を与えられた。その後居城を箕輪から和田(高崎)に移し、家康の第4子松平忠吉を婿に持つ。直政
	と忠吉は、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で忠吉とともに徳川軍の先鋒として大功を立て、石田三成の居城で
	あった近江佐和山城18万石を与えられた。以後井伊直政は三河譜代の武将と並び「徳川四天王」の一人と称
	され、名実共に押しも押されもしない譜代衆となったのである。井伊家の所領は常に譜代大名のなかでも最高
	であり、家康の直政に対する信頼が並ではなかったようであるが、その為諸侯の嫉妬も浴びたようである。2
	代目直孝も、2度にわたる大坂の陣での軍功により加増され、幕政にも参与するなど、直政と直孝の功績が以
	後の井伊家の家格を確立することとなった。









	井伊直政は佐和山において没した。関ヶ原での島津維新・入道義弘追撃戦の怪我が元で亡くなり、長男直勝が
	継いで、彦根に築城を開始するが、直勝は病弱で大坂の陣への参陣がかなわず、弟直孝が参陣した。これを見
	て家康は、彦根は二男直孝が継いで、直勝は別家を立てるよう命ぜられ、上野安中藩に3万石で転封された。
	彦根井伊家は江戸時代を通じて移封・転封がなく、彦根藩主であり続けたこと、幕府内では溜間筆頭として常
	に幕閣の中心であったことなど、他の譜代大名とは別格扱いをされていた。さらに幕府から「京都守護」「禁
	裏守護」という役目が与えられ、その格式と権威は代々引き継がれていった。また酒井家と並んで、13代直
	弼をはじめ、歴代中5人の大老を輩出した家系になるなど、他家では例を見ない家格であった。石高35万石。

 





佐和口から大手門へ入るまえに、右へ曲がり堀に沿って30mばかり行くと、
井伊直弼が青春期を過ごした埋木舎(うもれぎのや)がある。




	歴代藩主中でも有名なのは何と言っても井伊直弼(いいなおすけ)である。「安政の大獄」に始まる尊皇攘夷
	派の弾圧の中で、安政5年日米修好通商条約締結を断行、その責を負い老中職を辞すが、安政7年(1860)3月
	3日早朝、江戸城桜田門外で水戸藩士他に襲撃され命を落とす。雪の降りしきる中、彦根藩13代藩主で開国
	論者の大老井伊直弼は暗殺される。誰もが教科書で習った有名な「桜田門外の変」である。
	家督は嫡子直憲が継いだ。大名家の不慮の死は御家断絶という決まりを、「特別の計らい」でこれを免れたが、
	のちに10万石を減封された。幕内では直弼派が一掃され、尊皇攘夷派が台頭したので、藩内でも直弼側近で
	あった長野主膳や宇津木六之丞らを相次いで処刑し藩の生き残りを計った。鳥羽伏見の闘いでは、幕府の慣例
	で彦根藩が幕軍の先鋒となるが真っ先に遁走し、あとには「井伊の赤備え」の甲冑が累々と遺棄してあったと
	いう有名なエピソードが残る。甲冑を脱ぎ捨てて潰走した子孫達を見て、井伊直政はあの世で家康に何と言っ
	て詫びたのであろうか。



 

 



 



彦根城表門




彦根城博物館を見た後彦根城へ上る。博物館の脇から天守閣のほうへ登っていくようになっている。

 

 



 





 

 



 





 







 

 

 














	江戸時代には武家諸法度により、城の修築や改築には幕府の許可が必要で、老中から奉書が下され許可された
	ことから「御奉書御普請」と呼ばれた。彦根城はこれが16回、その他の修築が20回を数えた。明治以降も
	何度か修理されている。天守閣石垣は、外見を見ると一見無造作で、手当たり次第に積んでいったように見え
	る。大阪城のキチンと詰まれた石垣を見慣れている大阪人の目から見ると、「なんじゃ、こりゃ」と思えるが、
	実は、石の大きく重い方を内に組み、ずり出ないようにして、間に小石をつめていっている、極めて堅固な、
	「ごぼう積み」といわれる積み方だそうである。敵を防ぐ「石落とし」はない。



 

 

 

 

 

 

 



 

天守から歩きにくい石段を降りてくると、彦根藩の離宮である玄宮園へ行く。井伊直弼もここで生まれた。






 

昔懐かしいボンネットバス

 






 

帰りに京都で降りて高瀬川沿いをぶらりと歩いてみた。早くも桜の花びらが高瀬川に散っていた。




おまけです。 雪の彦根城 2006.1







邪馬台国大研究ホームページ / 日本の城 /chikuzen@inoues.net