Music:tenno_snd

平群の里を往く
2004.3.7(日) 歴史倶楽部弟81回例会
長屋王墓・吉備内親王墓






 


		長屋王(ながやおう/ ながやのおおきみ)
		別名: 日本霊異記には「長屋親王」とある。
		父:  高市皇子(天武天皇の子)の第1子
		母:  近江天皇女/御名部皇女(天智皇女。元明天皇の同母姉妹)
		生没年:天武5年(676)/天武年13年(684) 〜 神亀6年(729)46歳または54歳。
		皇后: 吉備内親王(草壁皇子と元明天皇の子)
		皇妃: 藤原長蛾子、智努女王、安倍大刀自
		皇子女:吉備内親王を母とする者・・・・・
			膳夫王(かしわでのおおきみ)・葛木王(かつらぎのおおきみ)・鉤取王(かぎとりのおおきみ)・桑田王ら
			藤原長蛾子を母とする者・・・・・
			安宿王(あすかべのおおきみ)・黄文王(きふみのおおきみ)・山背王(やましろのおおきみ)・教勝
			智努女王を母とする者・・・・
			円方女王(まとかたのおおきみ)
			安倍大刀自を母とする者・・・・・賀茂女王(かものおおきみ)
		住居: 奈良市
		墓陵: 長屋王墓(ながやおうのはか:奈良県平群町)




	天武天皇の子・高市皇子の第1子。母は「公卿補任」によれば「近江天皇女」、「尊卑文脈」によれば「御名部皇女」とある。草壁皇子と
	元明天皇の間に生まれた吉備内親王を正室とし、膳夫王(かしわでのおおきみ)・葛木王(かつらぎのおおきみ)・鉤取王(かぎとりのお
	おきみ)・桑田王らをもうけた。かって「奈良そごう」が建っていた、長屋王家の跡から出土した木簡や「日本霊異記」には長屋親王とあ
	り、皇位継承権を持っていた親王だったのかと物議をかもしている。「公卿補任」には没年46歳とあり684年(天武13)の出生とな
	るが、「懐風藻」記載の没54歳を採る説もある。

 


	大宝4年(704)、正四位上に初叙される。「蔭位制」によれば、一般には初叙は従四位下からとなるのでこれは特別の優遇措置であっ
	たようだ。皇太子であった(らしい)高市皇子の子であったこと、また妻・吉備内親王が文武天皇の姪にして元明天皇の皇女であったこと
	などが考慮されたものと思われる。
	その後、和銅2年(709)宮内卿・和銅3年(710)式部卿などを歴任し、霊亀2年(716)、正三位に昇る。養老2年(718)、	
	阿倍宿奈麻呂と共に大納言に任ぜられる。翌年7月、佐保宅に新羅使を招き詩宴を催す。「宝宅にして新羅の客を宴す」
	(「懐風藻」:養老7年説・神亀3年説などもある)。




	同4年8月、右大臣不比等が薨じると、翌年正月、従二位に昇叙され、右大臣に就任して台閣の首班となる。同年10月、元明上皇は長屋
	王と藤原房前を召して後事を託す。同年12月、元明上皇が崩御。これにより首皇太子(後の聖武天皇)の即位日程が話題に上るが、これ
	を機に即位推進派の藤原武智麻呂と慎重派の長屋王の間で対立が高まったとされている。
	養老6年、故上皇の遺詔によるものか、稲10万束(1万石に相当。異例の高額給与)、籾400石を賜わる。同年7月、太政官より僧尼
	に対する統制令が奏上される。僧綱が自由に各地を巡るのは不都合なため薬師寺に常住させるべきことなどを定める。
	長屋王は熱心な仏教信者であったが、これらの政策には当時の僧綱に対する批判が見え、「日本霊異記」にある、長屋王が僧の頭を撲った
	という挿話と併せて注目される。僧側からは、長屋王は嫌われていたようである。同7年には自邸に佐保楼を建設し、以後ここで華やかな
	詩宴をたびたび開催した。
	神亀元年(724)に聖武天皇が即位すると、正二位左大臣に昇る。2月、勅により、正一位藤原夫人(宮子)を「大夫人」と称する詔が
	発せられるが、これに対し長屋王らは称号が令に違反することを指摘し、天皇は先勅を撤回する。この事は、藤原家と長屋王の対立に益々
	拍車がかかったのではないかと想像される。この年から翌年にかけて長屋王による宴会が盛んに催され、山上憶良が長屋王宅で七夕の歌を
	詠んだりしているし、「懐風藻」に収録されている詩の多くがこれらの酒宴で作られている。神亀4年(727)、天皇は内安殿(内裏内
	殿舎の一つか)の前庭に百寮の主典以上を召して長屋王に勅を宣せしむ。凶兆・災異頻発の原因は天皇の不徳か官人の怠惰かと問い、長官
	は官人の勤務態度の良否を明らかにして奏問せよと命ずる。




	神亀5年(728)、8月、中衛府が新設され、房前が大将に就く。授刀寮を改編強化し、大伴・佐伯氏と関係の深い五衛府を制圧して兵
	権を藤原氏の手に掌握した。長屋王らを圧倒することを意図したものとされている。同年、基皇太子が薨去すると、藤原氏は光明子の立后
	を画策。長屋王はこれに反対したためか、さらに聖武天皇・藤原氏との対立を深めたものと思われる。

	同年2月10日、左京の人漆部造君足・中臣宮処連東人等が長屋王の謀反を帝に密告する。

	「私(ひそ)かに左道を学びて国家(みかど)を傾けんと欲」す。







	神亀6年2月10日の夜、宮廷の軍隊が長屋王邸を囲んだ。兵の指揮は藤原4兄弟の3男宇合であった。翌日11日午前10時頃、藤原4
	兄弟の長男で中納言藤原武智麻呂、舎人親王、新田部親王、大納言多治比池守、右中弁小野牛養、少納言巨瀬宿奈麻呂らが罪状を審議する
	ため長屋王家に入る。弁明できたのかどうかは定かでないが、翌12日長屋王は自邸で自害させられる。
	縊死と言われるが、「日本霊異記」によれば、長屋王は妻子、吉備内親王と膳夫王ら4王と共に、側室夫人とその子ら全てに毒を飲ませ自
	分で絞殺した後、自らも毒をあおり自殺したともいう。長屋王と吉備内親王の屍は、即日(13日)生駒山に葬られる。 (続日本記)

 


	約20年ほど前(1987年頃)の、平城宮跡の発掘調査で多数の木簡が発見され、その一つに「長屋親王」とあった事から、日本霊異記の記
	事とも相まって、長屋王の地位を巡っても論議が続いている。
	
	これは錦織さんも認めているが、生駒谷、平群谷というのはごく最近まで、近畿圏に置いてはパッとしない地域だった。古代においては
	「怖い場所」と思われていた事は事実である。それは長屋王達がここに葬られたことにも起因しているのだろうと思われる。吉備内親王の
	母の元明天皇、姉の元正天皇達の墓は平城宮近くにあるのに、二人がわざわざ遠くに葬られたのは、おそらく都から離れた所に葬って、意
	識からも遠ざけたかったからに違いない。そういう措置をとりながら、続日本紀によれば、吉備内親王は無実と明記せよとされ、長屋王に
	ついても「その葬礼は醜(いや)しくすることなかれ」と勅令がでる。また15日、聖武天皇は詔で、残忍凶悪な長屋王の性格とその乱行
	を指摘し、17日、上毛野宿奈麻呂ら7人を、長屋王との親交により配流する。長屋王の兄弟姉妹子孫妾らの縁座者は全て赦(ゆる)すと
	された。これらの措置は、あきらかに初めから長屋王を冤罪に陥れたことに後ろめたさを感じている聖武天皇の姿が思い浮かぶ。




	天平9年( 737)、諸国で疫瘡に倒れる者が多く、参議藤原朝臣房前(ふささき:藤原不比等次男)も4月、疫病で死亡した。7月には不
	比等の4男で参議の藤原朝臣麻呂(まろ)と、長男の左大臣藤原朝臣武智麻呂(たけちまろ)が薨(みまか)り、8月には3男の参議藤原
	朝臣宇合(うまかい)も薨った。立て続けに兄たちを亡くした聖武天皇皇后光明子は、法華寺を建立して兄たちの菩提を弔った。法華寺は
	天平時代、光明皇后の勧めにより日本総国分尼寺として創建されたが、正式な寺号は「法華滅罪寺」である。光明皇后の生家、藤原不比等
	の邸が寄進されて寺となった。皇太子を満1歳前に亡くし、また天然痘で兄弟の藤原4卿を失った皇后の悲しみが、「滅罪寺」という名前
	を付けさせたのかもしれない。或いは、そこには長屋王と吉備内親王を死に追いやった事への「滅罪」が込められていたのかもしれない。
	うち続く異変に対して世間では、当然これは長屋王の祟りだと噂された。立て続けに、長屋王を死に追いやった者たちが死んでいくという
	のは尋常ではない。世間の噂は当然ながら、宮廷においても真剣に「怨霊」の仕業と取りざたされたであろうことは想像に難くない。

 


	実際、聖武天皇と妃・光明皇后の恐怖はすさまじかったらしく、「長屋王の変」以来、二人は長屋王と吉備皇女の怨霊に悩まされ続ける。
	「続日本紀」に「皇后、寝膳安からず」という言葉がしばしば出てくるが、これは彼女が相当にひどい状態であったことを示している。
	夫妻は罪の意識にさいなまれ、おびえきった一生を過ごしたが、聖武天皇に関してはその病状はとりわけ深刻で、呪われた奈良を逃れて、
	「難波京」・「恭仁京」・「紫香楽京」と次々と都を移し、さまよい続ける。有名な「聖武天皇の彷徨」である。
	藤原4家の当主が亡くなった事により、政権は右大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)に移行する。諸兄は光明皇后の異父兄にあたり、聖
	武天皇の信頼も厚かった。諸兄政権では藤原氏の勢力を排除するために、唐の留学から帰国していた吉備真備(きびのまきび)や僧の玄
	朋(げんぼう)らを登用。一方の藤原一族は、739年に宇合の子・藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が大宰府に左遷され、武智麻呂の
	子・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)も諸兄政権の中でかろうじて命脈を保つ有様であった。九州で陰鬱な日々を送る事になった広嗣
	は翌740年、真備・玄朋の政界排斥を要求し大規模な反乱を起こした。藤原広嗣の乱である。聖武天皇は大野東人(おおののあずまひ
	と)を大将軍に任命し追討軍を派遣、2ヶ月かけて反乱を鎮圧したが、政権には大きな動揺が走った。うち続く天災、飢饉、疫病、それ
	に加えての反乱、政争。聖武天皇の心労は極みに達しつつあった。光明皇后はその後も子宝には恵まれず、奈良に戻った聖武天皇の健康
	も回復せずついに756年、大仏の完成を見ずに聖武天皇はその生涯を閉じた。




	長屋王は文雅を好み、自邸佐保宅(作宝楼、作宝宮)に文人を集め、しばしば詩宴を開いたと言われる。「万葉集」に和歌五首が残り、
	「懐風藻」にも「万葉集」にも幾つかの歌が収められている。仏教を崇敬し、袈裟千枚を唐の僧に贈ったという記事が「日本霊異記」に
	あり、唐では日本の熱心な仏弟子と理解されていたらしいが、同時に一方では、不謹慎だと牙笏を以て僧の頭を打ったことで、陰謀にま
	きこまれたのはその報いであるとも言われた。中国の孔孟に憧れ、宴を催しては儒家の教養をひけらかす長屋王は、日本の仏教界では嫌
	われていたようである。王は写経にも熱心で、長屋王願経として知られる和銅経、神亀経(ともに大般若経)の一部分が現存している。

 


	「続日本紀」天平10年7月の記事に、長屋王を陥れた密告が讒言であったと明記されている。即ち、少なくとも続日本紀編纂時には、
	長屋王の無罪が証明されていたことになる。前述したように、長屋王の変に至る前に、神亀元年( 724)2月6日勅により、聖武の母
	の正一位藤原夫人(宮子)を大夫人と称する詔が発せられたが、長屋王は、称号が大宝令では「皇太夫人」であるべきで令に違反すると
	指摘し、天皇は先勅を撤回に追い込まれ、書く時は皇太夫人、言う時は大御祖(おおみおや)、とすると改めている。皇后は天皇崩御
	の際には女帝として即位できる最高位の地位である。だからこそ「皇后は内親王(天皇の娘)でなければならない」と大宝令にある。
	長屋王はそういう秩序には極めて厳しく、光明子の立后にも間違いなく反対した可能性が高い。
	また藤原氏側から見れば、長屋王本人は天武天皇の第1皇子、高市皇子の第1子であり、即位の目はなくともその子、膳夫王が皇太子
	となる可能性はまだある。母は、元明天皇と草壁皇子の子であり、父母いずれも天武天皇の皇孫という血筋の良さを持っている。長屋
	王がいる限り、藤原一族が権勢を誇る事は難しい。皇位継承の将来的な災いを取り除こうと考えても不思議ではない。藤原4兄弟にと
	っては、長屋王とその血統は排除しなければならない対象だったのである。




	長屋王墓を訪ねた際、墓の側で発掘をやっていた。御陵公園の説明板にあるように「梨本南1号墳」と呼ばれる古墳のようだ。その土
	地の持ち主が発掘の状況を視察に来ていた。どうやらここに家を建てるらしく、その為に発掘調査されているようだ。長屋王墓から歩
	いて2,3分の所に吉備内親王の墓がある。二人は共に、天武天皇の孫で母同士は姉妹である。






	吉備内親王(きびないしんのう)
	父:  草壁皇子(その父は天武天皇)
	母:  阿閇皇女(後の元明天皇)
	兄弟: 元正天皇(姉)、文武天皇(弟)
	生没年:不詳
	夫:  長屋王
	皇子女:膳夫王(かしわでのおおきみ)・葛木王(かつらぎのおおきみ)・鉤取王(かぎとりのおおきみ)・葛木王・桑田王ら
	住居: 奈良市(奈良そごうを作るときに、長屋王邸として広大な敷地が出現した。)
	墓陵: 吉備内親王墓(きびないしんのうはか:奈良県平群町)

 

 


	平群駅の北約500mの所にある2つの古墳が、江戸時代の伝承にもとづき、奈良時代の左大臣長屋王とその夫人吉備内親王の墓に治
	定されている。墓はいずれも円墳で、前者が径15m、後者が径20mである。記録によると大正2年の報告に、宮内庁によって現在
	の形に整備されたとある。




	「続日本紀」には、「生駒山に葬る」としか記録されておらず、明確な埋葬地は明らかではない。江戸中期にまとめられた「大和志」
	に、「双墓、梨本村にあり一は長墓と称し左大臣正二位長屋王、一は宇司墓と称し二品吉備内親王‥‥‥」と記されており、これを根
	拠に梨本の2つの塚が夫妻の墓とされた。また、明治26年調査の「大和国古墳墓取調書」には、「墳丘に埴輪の残欠多く、巨石が鍵
	の手に埋っている。墳頂に埴輪が散布する」とあり、絵図にも吉備内親王墓の墳丘上に3つの巨石が描かれていることや、同32年の
	平群村の調査図でも台形状の塚として描かれている事、墳丘の高まりなどからみて、吉備内親王墓の主体部は横穴式石室ではないかと
	推測されている。

 


	長屋王墓の直下には全長約45m、後円部径約30mの前方後円墳(梨本南2号墳)の存在が確認されている。今日見た発掘現場は1
	号墳だという。梨本南2号墳は前方後円墳で、前方部を西に向け、周溝をもち、葺石・円筒埴輪・須恵器を配置していたそうである。
	6世紀前半の築造と推定される。梨本南2号墳は付近に分布する後期古墳群の初出である可能性もあり、注目される古墳である。現在
	両陵墓は、例によっての方形の石垣と生垣で囲まれ、石段の参道を持って宮内庁の管理下にある。




	「長屋王の変」は、この事件を契機に、皇族の手から藤原氏へと権力が移ったとされる、古代史上の一大事件である。元明天皇死後、
	今まで皇族側にあった政治の主導権を手に入れたい藤原氏は724年、首皇子の即位を強行する。ここに藤原氏出身の母を持つ初の
	天皇・聖武天皇が誕生したのである。さらに聖武天皇妃で藤原氏出身の安宿媛が、待望の皇子を出産し、勢いにのった藤原氏は早速
	この皇子を皇太子に立てるが、その翌年基皇太子は他界してしまう。皇族勢力を押さえるための持駒をなくした藤原氏は、しかし諦
	めない。今度は聖武天皇の夫人県犬養広刀自に安積親王が生まれた。これが皇太子になれば藤原家からの帝は誕生しない。そこで藤
	原氏は安積親王の立太子を妨げ藤原家の権勢を保つため、光明子の皇后冊立を考えた。だが古来より、皇后は皇族から立てるとされ
	ており、それは令の定めでもあった。皇后は天皇を助けて国政に関与し、情勢次第では即位して天皇となる可能性を持つ地位である。
	そのため夫人と皇后との間には圧倒的な差があった。強硬に立后反対を唱えたのが、藤原一族の伸長を嫌う長屋王であったのは当然
	と言えば当然である。光明子の立后という前代未聞の暴挙に、規則にうるさい長屋王が首肯する筈がない。猛然たる反撥が予想され
	た。「長屋王の変」は、その反対を防ぐために藤原4兄弟によって仕組まれた芝居であった。一族の将来に渡っても禍根となりそう
	な、左大臣・長屋王を葬ってしまう、いわば暗殺であって、聖武天皇、光明子も当然それは知っていたはずである。




	長屋王の変
	『続日本紀』 天平元年

	2月10日
	左京の人従七位下漆部造君足と無位中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)たちが、聖武天皇に密告した。「左大臣
	正二位長屋王が密かに邪道、特に呪詛を学んで、国家を傾けようとしています。」それを聞いた聖武天皇は、その夜、固関使を遣わ
	して三関(伊勢国鈴鹿関・美濃国不破関・越前国愛発関)をかたく守らせた。そして、式部卿従三位藤原朝臣宇合(うまかい:式部
	卿を長く勤めたため、彼の家は後に式家と呼ばれるようになった。)、衛門佐(えもんのすけ)従五位下佐味朝臣虫麻呂、左衛士佐
	(さえじのすけ)外従五位下津嶋朝臣家道、右衛士佐(うえじのすけ)外従五位下紀朝臣佐比物(さひもち)たちを遣わして、	六衛府
	の兵を率いて長屋王の邸宅(長屋王宅は平城京左京三条二坊にあった。)を包囲させた。		
	三関は三関国の国府より近京の地に位置しているため、京で反乱が起きたときに、その反逆者が東国へ逃げ入り、そこを拠点に反
	撃するような事態を防ぐために、三関を固守させた。

	2月11日
	大宰大弐(だざいのだいに)正四位上多治比真人県守(たぢひのまひとあがたもり) 左大弁正四位上石川朝臣石足(いわたり)弾生尹
	(だんしょうのいん)従四位下大伴宿禰(すくね)道足以上の3人をこの政変に対処するために、かりに参議とした。午前10時ごろ、
	一品舎人親王・新田部親王、大納言従二位多治比真人池守、藤原中納言正三位藤原朝臣武智麻呂、右中弁正五位下小野朝臣牛養(う
	しかい)、少納言外従五位下巨勢朝臣宿奈麻呂(こせのあっそんすくなまろ)たちを、長屋王の邸宅に遣わせて、その罪を糾問させた。

	2月12日
	長屋王は自ら首を吊って自殺する。天皇に対する謀反は八虐という重罪であったから、本来だったら自宅で自殺などできなかった
	が、特別処置として自殺を許可された。
	正室の二品(にほん)吉備内親王、息子の従四位下膳夫王(かしわでおう)、無位桑田王・葛木王・鉤取王(かぎとりおう)らも、自ら
	首を吊った。そして、長屋王家に仕えているすべての人々も捕らえられて左右の衛士・兵衛等の府に拘束された。

	2月13日
	聖武天皇は使者を派遣して、長屋王・吉備内親王の亡骸を生馬山(いこまやま)に葬らせた。そのとき、聖武天皇は長屋王と吉備内
	親王の葬礼などに関しての詔(みことのり)をだした。
	「吉備内親王に罪はない。葬送の礼にならって葬るように。ただ、弔うとき鼓や角笛を使用してはならない。(親王は鼓や大小の角
	笛を奏でながら埋葬された。)その家令・帳内らは放免せよ。長屋王は罪を犯したので、誅す。しかし、罪人だといっても、その
	葬式をみすぼらしくしてはならない。」長屋王は天武天皇の孫、高市(たけち)親王の子であり、吉備内親王は日並知皇子尊(ひなみ
	しのみこのみこと)の皇女である。

	2月15日
	聖武天は詔で、「左大臣正二位長屋王は、残忍でひねくれていて暗い性格で、それは生活の随所で見られたものだった。悪行を尽
	くし邪まで、その悪事は、たまに法律をかいくぐってしまうこともあった。邪まなことを企むような輩をすべて刈り取り除き、抹
	殺しようと思う。そのため、国司は人々が3人以上集まって何事かを企むことがないよう注意しなさい」と発した。そこで、長屋
	王が自尽した2月12日にさかのぼって、通常の単行法と同じようにこの日を、この勅令施行日とさせた。

	2月17日
	外従五位下上毛野朝臣宿奈麻呂(かみつけのあっそんすくなまろ)ら7人を、長屋王の協力者として、流罪にする。その他の90人
	はすべて釈放された。
	・当時、律令に反する者には、笞(鞭打ち)・杖(棒打ち)・徒(懲役)・流(流罪)・死(死罪)の五刑が科せられた。

	2月18日
	左大弁正四位上石川朝臣石足らを長屋王の弟である従四位上鈴鹿王の邸宅に派遣して、「長屋王に縁座すべき兄弟・姉妹・子孫・
	妾らを、男女を問わず、すべてを赦すことにする」と詔を伝えた。この日、長屋王事件によって生じた罪の気や穢れを除去するた
	めに大祓(おおはらえ)が行われた。
	・唐の律を参考にしている。唐の律では、おじ・おば及びその子供も縁座されるが、日本の律では縁座されるのは直系のみ。

	2月21日
	左右京に住んでいた死罪に当たる罪を受けた人々を放免する。さらに、長屋王事件によって付随する百姓らの雑徭を免除する。ま
	た、密告した漆部造君足・中臣宮処連東人に外従五位下の位を授け、賜封30戸、賜田10町を与える。漆部駒長には従七位下を
	授ける。それぞれ、位に応じて授けられる。
	当時、下級役人は1階級上がるのに約15年かかった。彼らは7階級上がったが、この計算でいくと約100年かかることになる。

	2月26日
	長屋王一族の存命者は、今後も従来通り位禄・季禄・節録などの支給を受けることができるとする。







上は、かって長屋王邸宅跡に建っていた「奈良そごう」。倒産したのも長屋王の祟りという。


	平城京の左京三条ニ坊にあたる所は内裏に近い一等地で、ここにそごうデパートが建設されることになり、1985年から発掘調
	査がはじまった。木簡の発見により、ここが長屋王の邸宅跡であることが明らかになり、近隣住民や研究者の間から建設反対の声
	があがったが、行政と奈良そごうは建設を強行した。遺跡保存のために、普通地下1階は食料品店、1階は服飾品となるがここで
	は地下階が無い珍しい建築様式のデパートとなった。しかしながら、その後の「そごう」の命運は既にご存じの通りである。果た
	して長屋王は今でも祟っているのであろうか。



下は、長屋王邸宅跡の復元。平城京跡の「独立法人奈良文化財研究所平城京部資料館にある。




	長屋王家木簡は、基本的には王家の家向きを担当する家令所で使われた木簡である。従って、長屋王家内の組織や人の動きは具体
	的に記録されているが、政治情勢や大きな世の中の流れなどは記述されていない。しかし従来、律令の規定にみる貴族の家政につ
	いては、役人を幾人、土地が何町、収入は何石、といったような「数字」でしか把握できなかったものが、具体的な流通経路をも
	った動きとして把握できた。また、屋敷内にあった部署として「政所」「主殿司」「大炊司」「鋳物所」「縫殿」「染司」「馬司」
	等とよばれた組織が数多く在ったことがわかったし、出張や休みなど、そこでの人の動きが詳細にわかるものもある。
	「粕漬瓜」と記された納品伝票らしきものもあり、奈良漬は当時から食べられていたようなことも判明した。また、家令所とはい
	えども、長屋王邸は一応朝廷から与えられたいわば公的な組織であり、そこでは他の役所と同様に文書のやりとりが行われていた。
	長屋王家木簡は、古代の役所における仕事の進め方、そこでの各種文書・帳簿・木簡の使われ方といったシステムを考える際の重
	要な手がかりとなる第一級の史料であり、今後の古代史研究に及ぼす影響は極めて大きい。これらの木簡は、今でも各研究機関で
	解読作業が続けられている。










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