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平群の里を往く
2004.3.7(日) 歴史倶楽部弟81回例会
平群氏春日神社・宮山塚古墳


	<平群氏春日神社>

	「宮裏山古墳」から下りてまた元の道へ出たら、右へ曲がって北へ行くと直ぐ「平群氏春日神社」が鎮座している。つまり、
	「宮裏山古墳」の名称は古墳が「春日神社」の裏山にあるので、そう呼ばれているのであるが、「春日神社」の境内にも
	「宮山塚古墳」がある。宮の前後に古墳があるのである。やはりこの神社が相当古い由緒を持っているのは間違いない。も
	しかして、古墳時代からあった神社だったりして。境内の宮山塚古墳から出土した兜が御神体とされていたようだが、江戸
	後期に盗難にあったという話である。



 


	下の写真は、中世の椿井城跡にある、「平群氏春日神社沿革記」。この城の城主であった椿井氏というのは、鎌倉〜室町期
	の人で、城もこの山の裾野あたりに築かれたと言われる。この山上の城跡は、信貴山城の松永久秀に対抗するために築かれ
	た軍事用の詰城のようだ。神社の拝殿に、平群氏82代正嫡と言う、椿井一見氏の奉納額「春日神社沿革記」が掲げられて
	いる。それによると、平群氏の祖は天大吉備諸進尊(あまのおおきびもろすみのみこと)で、子孫の提原王が武内宿弥の養
	子になり、第12代景行天皇の勅命によって平群の姓を賜ったそうである。そして後、大和官領職越前懐泰が神護景雲2年
	(768)正月9日、河内枚岡より三笠山へ臨幸する春日大明神に供奉して、初代の興福寺官務宗徒になつた後、天徳年代
	(960年代)伊橡律師懐休が「椿井寺」「春日社」を創建し、それが「平群氏春日神社」の始まりだと言う。それにしても
	82代とは。天皇家が124代、出雲の国造「千家」家は92代である。ほんとなら驚くべき家系だ。




	平群氏は天大吉備諸進尊を祖とする。孝霊五十四年甲子十一月十三日薨じ、上辺槍掛山岡上陵平群坐神社と申す也。
	二代天岩床尊は平群郡勢益原丘上陵天岩床神社と申す也。景行朝堤原王は武内宿祢の養子となり、勅命により平群
	姓を賜り二十九代神手小将軍大宿祢(日本書紀)は聖徳太子に従い守屋氏を討ち以て氏寺平群寺を勢益原丘に創
	建す。推古の朝、三十四代式部卿従二位中納言直隅(日本書紀)大海皇子(天武天皇)に仕え吉野上市・大淀町増
	口(摩志口)に住壬申の乱起こるや鈴鹿に進軍出陣に先立ち神前の井戸に椿の木を挿し戦勝を祈願す。自後始めて
	椿井を以て称号となす。(千三百年前)軍功により鈴鹿の関を拝領自後椿井となる。此時社寺創建せしも戦国時代
	に織田信長の兵火により灰燼となる。現在伊勢一之宮椿大社是也。十六代右中将懐房は藤原房前の養子となり仍て
	藤原の平群と称す。
	大和管領職越前懐泰は神護景雲二年正月九日河内平岡より三笠山に春日大明神を臨幸の供奉し以て初代興福寺官務
	衆徒となる。天徳年間(年)伊予律師懐休初めて椿井寺並春日社を創建、当春日社の初め也。椿井寺の一部仏像は
	当村乾氏宅にあり。五十七代椿井中納言氏房は実は征夷大将軍藤原頼経の三男なり、母の遺命により血脈を継ぐ為
	養子となり、弘安五年六月二日菊桐の御紋を賜し、伊賀大和河内安房、四ヶ国の太守として勅贈正二位大納言とな
	り当村に椿井城を築城せり。越前政里奈良探題となり館を奈良吉野町に移し以後椿井町と改む。永世年間懐慶政信
	公山城一円を賜り園辺に居城を構え以後山城椿井と称し星霜二千二百有余年を経て今日に至る。斯くの如く古代よ
	り代々築かれたる平群一円の文化財を保護し後世に残し度き念願により以て一文となす次第也。

		 					昭和四十八年十月吉日 
							平群八十二代 嫡
	       					椿井一見書



 


	どこかのボーイスカウトの一団が見学に来ていた。古墳の説明板はもうぼろぼろで見えない。引率のリーダーらしきおっさ
	んが何か説明していたが、古墳についての説明ではないようだった。残念。誰かにこの古墳と神社の関係を聞きたかった。
	この古墳も平群氏の一族を葬ったものだろうなぁ。或いは紀氏か。




	<椿井宮山塚古墳> 県指定史跡

	直径約20m高さ約4mの円墳で、幅2.9m、高さは奥壁付近で3.14m。玄室は小さい割石を穹窿(きゅうりゅう)状に
	積み上げてあり,天井石は1舞岩である。奥壁中軸に沿って10cmほど奥にひっこんだ石材が2つ上下に、左側壁に1つ
	ある。割石の小口積みは、高さ約1mくらいまで垂直に積み上げ、それ以上は持送りの穹窿式で天井を一石で構築している。
	築造年代は、5世紀中期から末期と推定され、奈良県では古い時期の古墳である。

 


	穹窿式石室とは、天井がドーム状に狭まっている石室の総称で、ドーム式石室と同意である。穹窿式石室は九州・肥後地方
	の石室がその代表格のように言われるが、他にも筑後地方などで肥後の穹窿式石室とは異なる特徴を持つ穹窿式石室が分布
	している。一口に穹窿式石室といっても、色々なタイプのものが存在しているのである。最も早く成立したのは肥後地方と
	考えられるが、畿内型穹窿式石室はこの肥後型穹窿式石室とは無縁で、朝鮮半島より直接百済系渡来人により、ここ平群谷
	に導入されたと考えている人もいる。

 


	玄室の天井岩が下がってきているのか、それとも羨道が埋まっているのか、或いはその両方かも知れないが、這って入らな
	いと玄室には入れない。子供達は喜んで入っていたがオッサンは体が硬くてなかなか入れない。入ってみると案外中は広い。
	がらんどうで、中には何もない。隅の方にとっくりが1本転がっていた。だれか酒でも飲んだのか。それとも供え物をする
	祭壇でもこしらえてあったのかも知れない。




	巨石を組んだ平群の他の古墳と違って、玄室は小さい割石を積み重ねた構造である。これで初期の古墳だという事がわかる。
	和歌山岩橋千塚のような、板状の割石ではないが、積み上げていく構造といい、紀氏神社の存在といい、ここは昔紀氏とも
	深い関係があったのだろう。平群氏と紀氏は同族ともされ、共に武内宿禰の末裔と言われる。現に「平群町史」は、古文書
	に紀氏神社は、旧社地の隣に「田の坪」の名が見え、これは復元条里制地図から見て椿井村に当たるので、紀氏神社はそも
	そも椿井村にあったのではないかと指摘し、その神社が当春日神社であろうと推定している。 



 



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