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平群の里を往く
2004.3.7(日) 歴史倶楽部弟81回例会
笠石仏如来像・椿井井戸・宮裏山古墳

		平群(へぐり)は生駒・信貴山脈の東側にあり、北方が生駒谷、南方が平群谷と呼ばれる。ここが平群と呼ばれるようになったのは
		一体いつ頃の事なのだろうか。ほかの多くの地名と同様に、その起源は曖昧模糊としており定かでは無いが、遠く古代にさかのぼる
		ことは間違いない。古代、おそらくこの地は大和朝廷から見て辺境の地とされ、それを示す言葉が訛って辺郡・平郡・平群という変
		遷をたどってきたのではないかと推測できる。
		この地域は近年、大阪のベッドタウンとしての宅地開発が進み、竜田川周辺では改変が激しい。「ちはやぶる・・・」と詠まれた面
		影はいまやみじんもない。現在、流域は生駒市と生駒郡平群町が行政区域である。

 


		平群氏は、大和国平群郡平群郷付近を本拠地とした豪族で、武内宿禰の後裔氏族と伝わる。姓は初め臣。天武13(684)年以後は朝
		臣となる。応神朝から軍事氏族としての活躍が見え、応神天皇の御代に武内宿禰(たけのうちのすくね)の男子「木莵宿禰(づくの
		すくね)平群臣之始祖也」との記録があり、おそらく平群谷を支配したことで名付けられたのであろう。雄略朝には平群真鳥(まと
		り)・鮪(しび)父子が国政を専断するにまで至るが、大伴金村らによって誅戮され、以後は次第に衰えた。日本書紀には、仁賢天
		皇の死後、大臣平群真鳥臣(おほおみへぐりのまとりのおみ)は驕慢で国政を恣(ほしいまま)にし、臣下としての礼節がまるでな
		かった。武烈天皇は、嫁にと望んだ物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)の娘影媛(かげひめ)が、平群真鳥臣の息
		子鮪(しび)にすでに犯された事を知り、大そう怒って鮪を殺し、大伴金村連(おおとものかなむらじ)とともに平群真鳥臣も焼き
		殺す。そして即位し、大伴金村連を大連(おおむらじ)とするのである。

 
芽吹きだしたネコヤナギ。

		ある説によれば、これが元で武烈天皇は一生女を憎み妻帯しなかったのだと言うが、むろん書記にはそんなことは書いていない。
		奈良朝で活躍した同氏出身の官人としては、遣唐使判官・摂津大夫などを歴任した平群広成などがいる。また古事記などで詠まれて
		いる歌の中に「へぐりの山の・・・」の記述も見られる。その後、大和西南部において勢力を広げ、その勢力圏に建立された法隆寺、
		聖徳太子との関わりなど、古代史の中でも異彩を放つ豪族・地域である。

「椿井(つばい)線刻石仏」

 


		「烏土塚古墳」を下りて西へ向かうと、春日丘の住宅地を抜けて「竜田川駅」へ戻ってくる。線路に沿ってちょっと北へ行き踏み切
		りを渡り、竜田川の「協和橋」を渡って、国道168号線を横断して更に東へ行くと、矢田丘陵の麓に「椿井井戸」があり、そこが
		旧「椿井村」である。その村の西入口に祀られた線刻の笠石仏がある。




		角柱状の石材を壷形に彫り込み、如来立像を線刻し、上部に扁平な自然石を乗せている。高さ94.5cm、幅44cm、彫り込み、
		71×29cm、仏身58.5cm。顔から胸の部分が信者が撫でた手ズレによって摩滅しているが、精緻な線刻で表現され、仏身の
		周囲、彫り込み内に15の種子が配されている。本来の像容ははっきりしないが地元では弥勒と呼んで信仰している。胸の付近で折
		れているが、昔、牛馬をつないでいて引き倒されて折損したという。三郷町総持寺の一針薬師笠石仏や勢野西墓地の線刻阿弥陀石仏
		等との類似性が指摘されており、鎌倉中期を下らない作と考えられている。

 
どこの庭先にも梅が満開である。歩いていると甘酸っぱい梅の香りが漂ってくる。


町指定史蹟「椿井井戸」

 


		聖徳太子と平群神手(へぐりのかみて)将軍が、物部守屋討伐の際ここを訪れ、持っていた椿の椿の杖をここの地面に突き立てて戦
		勝を祈願すると、一夜にして杖が芽吹いて葉が繁り、冷泉がわき出したというエピソードを持つ井戸。「椿井」という地名の起こり
		にもなっている。汲めども尽きず、神手将軍はこれは戦いへの瑞祥であると大いに喜び、この水を太子とともに兵士達に振る舞った
		ところ、志気が大いに上がり大勝できたと伝わる。

 

最初えらく濁った井戸だなぁと思っていたが、よく見るとその反対だった。
つまり澄みすぎていて、井戸の岩や底の白砂が濁りのように見えたのだった。

 



「宮裏山古墳」

 


		「椿井井戸」の北側に「常念寺」があるが、今は誰も住んでいず、山のように郵便物が玄関口にたまっていた。その前の道の脇、椿
		井井戸の脇の道を2,3分行くと山への昇り道が見える。ここを更に2,3分昇れば宮裏山古墳にたどり着く。「宮」(平群氏春日
		神社)の裏にある事からこの名前が付いたものと考えられる。開口部から蒼ケ部にかけて、土でほとんど埋まっているので、玄室に
		は這って入らなければならない。直径約15m,高さ約4mの円墳で、玄室長3.9m、玄室幅2m、玄室高さ3.2m、羨道長4.
		4m、羨道幅1.1mを測る。両袖式の横穴式石室で、玄室前壁は袖石の上に2石積まれており,上の石は大きく内傾させて、また
		奥壁もわずかに内傾させて架構してあるのが特徴である。墳丘は、西側がやや崩れ、石室天井の一部が露出しているが、天井石は4
		石だそうが、本来は5石で中央の1石が崩落したものと考えられている。





古墳から降りてきて右へ曲がり、「常念寺」の北側の道を行くと「平群氏春日神社」がある。


今は無人となったらしい、常念寺境内にて。


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