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箸墓古墳・ニュース




		●桜井・箸墓古墳 「周濠は二重」と想定 墳丘規模も一回り大型  奈良新聞 2003年1月9日
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		 報告書に掲載された箸墓古墳の復元図

		奈良県立橿原考古学研究所は、"卑弥呼の墓"とも呼ばれている大型前方後円墳「箸墓古墳」(桜井市箸中)の周濠(しゅごう)
		部で行った発掘調査の報告書を発行した。過去の調査データを加えて周濠は二重だったと想定、復元図を掲載したほか、墳丘の
		規模がこれまでの推定より一回り大きくなることを明らかにした。
		周濠やふき石が確認されたのは平成6年12月から行われた第7次調査で、前方部北側の内濠は、幅10メートル以上、深さ2メートル
		以上と分かった。築造時期の解明につながる土器も出土。
		報告書では、内濠の外側に馬蹄形の中堤を想定。そこから広がる落ち込みを外濠と判断し、墳丘の周囲に内濠、馬蹄形の中堤、
		外濠が順にめぐる復元図を作製した。
		墳丘の推定規模は全長約290メートルで、これまでの推定より約14メートル大きい。後円部の直径は約160メートル前方部の長さ
		は約135メートルとなる。くびれ部も両側に15メートルほどの拡張がみられ、想定よりも太めの墳形と分かった。
		さらに、出土した土器の形式から、築造時期を260-280年ごろと推定。被葬者について、248年ごろに死んだ女王卑弥呼や続いて
		即位した女王壹与ではなく、その次に擁立された男王だった可能性を示した。このほか、第9次調査(平成8年)と第10次調査
		(同9年)の調査報告も掲載している。橿原市畝傍町の同研究所付属博物館内の売店で販売中。
		(c)NARA-SHIMBUN 2003 



		●吉備地方特有の土器片箸墓古墳で大量出土 3000点、
		交流裏付け−築造年代特定へ一級資料 平成12年5月18日 産経新聞
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		邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある巨大な前方後円墳「箸墓(はしはか)古墳」(奈良県桜井市)の墳丘部から、吉備
		地方(現在の岡山県)で主に出土する特殊な土器や、最古型の埴輪などの破片が三千点以上出土していたことが平成12年5月17
		日(水)、宮内庁の調査でわかった。箸墓古墳は今年3月、邪馬台国が存続していた三世紀前半ごろで最古の古墳と確認されたホ
		ケノ山古墳に隣接し、三世紀後半に築造されたとの説がある。しかし、宮内庁が陵墓として管理しているため、発掘は規制さ
		れ、これほど大量の遺物の出土は今回が初めて。被葬者と吉備地方の勢力が深く関わっていることを改めて裏付けるとともに、
		箸墓古墳の築造年代を特定する一級の資料。邪馬台国の所在論争にも影響を与えそうだ。 
		宮内庁書陵部の報告によると、今回確認されたのは土器や埴輪などの破片三千数百点。これらの遺物は、平成10年9月の台風7
		号の強風により、古墳の墳丘に植えられた木が倒れ、その整備事業の際に、倒れた木の根元の土から採取されたという。ほと
		んどが前方部と後円部の墳頂平坦部からの出土だった。後円部で出土した土器には、「特殊器台」という吉備地方の墳墓に供
		献された大型の土器が含まれていた。「特殊器台」は弥生時代後期に吉備地方で出現。古墳時代になって円筒埴輪に変化した
		ことが確認されている。 
		箸墓古墳から出土したものは、サイコ型式の埴輪に転化する直前のタイプで、奈良県で、は中山大塚古墳(天理市)、天塚古
		墳(橿原市)、西殿塚古墳(天理市)などから出土。岡山県の弥生時代終末期とみられる墳墓などでもはっけんされている。
		この古墳一体を中心にしたとみられる初期ヤマト政権に、吉備地方の勢力が深くかかわっていた可能性が一段と高まった。一
		方、前方部からは、瀬戸内沿岸地方にルーツを求めることができる複数の土器や二重口縁壺など多数の埴輪が見つかっている。
		出土した土器の年代について、大塚初重・明治大学名誉教授(考古学)は「後円部の特殊器台と前方部の埴輪には、考古学的
		な時間差があります。まず、後円部で埋葬時に吉備の土器が供献され、5年か10年後、前方部で埴輪を置いて墓前祭のような葬
		送儀礼が行われていたのではないか。箸墓古墳に一定の年代幅があったとみられ、箸墓の出現は3世紀半ばごろまでさかのぼる
		可能性がある。」と指摘。大塚教授は「ヤマト政権が成立してきたことを示す重要な発見」と話している。寺澤薫・奈良県立
		橿原考古学研究所調査第一課長の話「これまでは少ない資料で箸墓古墳の築造時期など考えてきたが、墳丘部でまとまった数
		の土器が採集され、箸墓古墳の埋葬時期がはっきりするのではないか。」 

		
		●箸墓古墳の発掘調査 発掘調査現場から(145)広報「わかざくら」 平成10年9月15日号掲載
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		箸墓古墳の発掘調査が8月19日まで行われました。箸墓古墳は全長約280mの前方後円墳で、日本最古の大型前方後円墳と
		言われています。前方部の周辺では過去に5回の発掘調査が行われ、葺石や周濠状の落ち込み、盛り土による堤、古墳築造時
		の土取り跡などが確認され、出土した土器の検討により前方部が布留0式期(3世紀後半)の築造であることが確認されていま
		す。今回の調査は後円部では初めての調査であり、今まで実態のよく解っていなかった箸墓古墳について実に多くの事柄を知
		ることができました。
		まず第一には墳丘周囲の構造が解ってきたことです。古墳の周囲には幅約10m程度の周濠と、その外側に基底幅15mを越え
		る大きな外堤が巡っていたようです。また外堤の所々には墳丘へと繋がる渡り堤が築造当初から付設されていたと考えられ、
		後の渋谷向山古墳などに代表される渡り堤を持った古墳のルーツとも言うべき様相を呈していたのでしょう。最古の大型前方
		後円墳といわれる箸墓古墳にこれらの要素が備わっていたということは古墳の構造や周辺施設の意義を考える上で重要な材料
		となるでしょう。
		第二には築造時期の問題です。後円部の墳丘そのものを調査した訳ではありませんが、築造当初から後円部と同時に構築され
		たと考えられる渡り堤や外堤の盛り土内部から出土した土器の内、最も新しいものは布留0式と呼ばれる3世紀後半の土器群で
		あることや、周濠の埋没時期、前方部での調査成果などを考え合わせると箸基古墳の築造が布留0式期の中で完結していること
		はほぼ間違いないものと考えられます。【埋蔵文化財センター】 


		●桜井の箸墓古墳「周濠、外堤、渡り堤を確認」 平成10年9月11日奈良新聞掲載
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		全国最古の大型前方後円墳である桜井市箸中の箸墓古墳(全長約280m)の隣接地を発掘調査した桜井市教育委員会は10日、
		「古墳を取り巻周濠(しゅうごう)と外堤、また外堤と墳丘を結『渡り堤』が見つかった」と発表した。箸墓以後の古墳でよ
		く見られる、これら三施設がそろって確認された最古の例。箸墓が定型化した古墳のルーツであるということが裏付けられた。
		また「布留0(ゼロ)式」と呼ばれる土器片が多数出土した。この土器の実年代は、学者によって説が分かれるものの三世紀後
		半とするのが一般的。以前の調査でも同様式の土器が出土しており、築造時期もほぽ確定した。同古墳は邪馬台国の女王「卑
		弥呼」の墓との説もあるが、土器の実年代は卑弥呼の時期とはずれることから、邪馬台国論争にも一石を投じそう。
		布留 0(ゼロ)式の土器は平成7年に県立橿原考古学研究所が前方部北側で行った調査でも出土。同古墳は始めに円墳として
		造り、数十年後に前方部をくっつけたとの説もあったが、後円部からも同様式の土器が出土したことで、築造当初から周濠を
		備えた前方後円墳だったことが分かった。

		卑弥呼の墓の可能性もある(白石太一郎・国立歴史民俗博物館教授の話)
		最古の大型前方後円墳の周囲の状況が明らかになったのは大きな成果。土器の実年代は、3世紀半すぎから後半とみられ、卑
		弥呼の墓の可能性もある。 


		●巨大前方後円墳ルーツは箸墓「周濠、外堤の存在解明」 平成10年9月11日毎日新聞掲載
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		邪馬台国の女王、卑弥呼の墓とする説があり、最古の巨大前方後円墳とされる奈良県桜井市の箸墓古墳が、周濠と外堤に囲ま
		れ、墳丘と外堤をつなぐ「渡り堤」も持っていたことが分かった。10日発表した同市教委によると、周濠や外堤、渡り堤は、
		後の大王墓(天皇陵)に代表される巨大前方後円墳にあり、その原形が箸墓古墳で既に整っていたことになる。「大和政権の
		権力の象徴」とされる前方後円墳のルーツだったことをうかがわせるもので、邪馬台国から大和政権へと続く古代国家成立の
		過程を考えるうえで重要な資料となる。
		同古墳は宮内庁が倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)墓として陵墓指定し、発掘調査はできない。今回は後円部に隣
		接する民家の建て替え工事に伴い、約170uを調査した。
		箸墓古墳では過去2回にわたって前方部付近の発掘調査が行われ、幅10m前後の周濠などが確認されており、今回の調査と合
		わせ、同市教委は前方後円の形に添って周濠や外堤が完全に巡らされていたと判断。箸墓より古いとされる纒向遺跡(桜井市)
		内にある全長100m級の古墳群には完全には備わっていないことなどから、同市教委は「景行天皇陵(渋谷向山古墳、天理市)
		など巨大前方後円墳のルーツが箸墓古墳であることが確認された」としている。
		周濠の底などからは「布留0式」と呼ばれる土器が出土。製造年代は、卑弥呼の没年(248年ごろ)に近い3世紀半ばと見る研究
		者もいるが、同市教委は「土器が作られた時期に、古墳全体がまとめて築造されたのは間違いないが、土器の年代自体が未確
		定」とし、古墳の築造年代について具体的な言及はしなかった。

		確認、意義深い(都出比呂志・大阪大学教授(考古学)の話)
		祟神天皇陵(行燈山古墳、天理市)や景行天皇陵など後の巨大前方後円墳に見られる重要な要素が、古墳時代の最初の段階に
		既に備わっていたことが確認されたことは意義深い。最初の巨大前方後円墳として箸墓が造られたことが、大和政権の成立に
		つながると考えてもいい。









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