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宝塔寺・嘉祥寺
歴史倶楽部第71回例会



宝塔寺

 


	【宝塔寺】ほうとうじ  伏見区深草宝塔寺山町 
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	深草墓園から七面山(しちめんざん)のミニ・ハイキングコースを登って、宝塔寺の鎮守社である七面宮のある所に出る。ここ
	には法華経守護の吉祥天が祀られており、「105メートルの山上からの眺めもすばらしく、伏見城天守閣、遠くは男山、天王山が
	望めます。」と書いた解説があったが、一面の竹藪で、かすかに眼下に高校のグラウンドが見えるのみだった。コースの終点に
	宝塔寺の拝殿がある。参拝者は下から登ってくるが、我々は一番上から下っていく格好になった。

 


	徳治2年(1307)日蓮の法孫日像は、京都で布教中に洛外へ追放された。その時、真言寺(現在向日市)において、時の極楽寺住
	職良桂と三日三晩の宗論を行い、良桂が屈服、極楽寺を法華道場に改めた。そして日像を開山とし、自らは二世となった。日像
	は京都妙顕寺で康永元年(1342)没したが、遺言により、ここ宝塔寺で荼毘(だび:火葬)にふされた。日蓮、日朗の遺骨も納
	められたので、西身延、巽の霊山とも呼ばれている。





本堂は改修中であった。大きな伽藍である。我々は、左方向の唐風の門から降りてきた。

 





嘉祥寺



 

 


	仁明天皇は、嘉祥3年(850)に御所の清凉殿で崩じ深草に葬られた。山陵のそばにこれを守護するため嘉祥寺が造営された。
	その後、摂政藤原良房は嘉祥寺に西院を建立し、さらにそれを独立させて貞観寺と改めた。仁明天皇山陵に関する文献史料によ
	れば、貞観寺は独立した寺院とみなされていたが、嘉祥寺は仁明天皇陵と表裏一体として扱われていたようである。つまり嘉祥
	寺の寺域は仁明天皇深草山陵の陵域と同一であり、実際は寺域の中心部に嘉祥寺の伽藍が建ち並び、伽藍に隣接される形で深草
	山陵が位置していたと推定される。(「延喜式」諸陵寮、「日本三代実録」貞観3年6月17日・同8年12月22日条)







仁明天皇陵

 
	宮内庁が比定したこの深草陵は、幕末に治定されたもので、仁明天皇陵の正確な位置は現在では不明である。しかし、現仁明天
	皇陵の北、約250mにある善福寺(伏見区深草瓦町)では、境内付近から礎石や瓦が出土しており、これが嘉祥寺の遺構・遺物と
	みられている。「日本三代実録」貞観3年6月17日・同5年正月21日の条、貞観5年の詔と「延喜式」諸陵寮の記載から考え合
	わせると、本来仁明天皇陵を守る嘉祥寺の寺域は、現在の深草瓦町のほぼ全域を占めていたと考えられている。また、現仁明天
	皇陵北側の平安時代の貴族墓・深草古墓の発掘調査で多数の円筒埴輪が出土していることから、この埴輪を持っていた古墳は、
	仁明天皇陵の東にあったという「大墓」に当てる説が有力である。

 




 
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