Music: Mr.Moonlight

ひょうごの歴史

旧居留地から博物館へ







	神戸大丸前で地下鉄を降りる。安い中華料理でも食べようかなと中華街へ行ったが、今日は旧正月の春節祭の真っ最中
	でエラい人出だった。現在の中国では、行政のカレンダーは西暦が標準だが、古来中国では農耕のめやすでもある昔な
	がらの旧暦(太陰暦)が使われてきた。そして、旧暦の新年の元日を『春節』として祝った。ここ神戸でも南京町あげ
	てのお祝いでは、獅子舞、龍舞などの数多くの出し物でにぎわい、多くの市民が参加し、観客が集まる冬の風物詩とな
	っている。南京町では、オス龍ロンロンや、メス龍メイロンの舞いが町を練り歩き、獅子舞が祭りの雰囲気を盛り上げ
	る。2時15分からの行列を見ようと、1時にはもう街路に人々が群れていた。

 


	<旧居留地>

	イギリス人技師、J・W・ハートと伊藤博文の主導で築かれた。エリア内は126の区画に整然と分けられ、車道、歩
	道の区別やガス灯、下水道、公園の設置など、都市計画に基づく当時では最先端の町造りが行われた。居留地とは、条
	約を交わした国家が、相手の国家に対して、一定の範囲を定めて居住や営業を許可した範囲を言う。治外法権が認めら
	れた、いわば「小さな異国」で、明治32(1899)年の条約改正で廃止されるまで30年余り続いた。

 

 


	神戸港での交易が盛んになるにつれ、新たに東の生田川から西の宇治川の間は、外国人の雑居を認めたため、来日した
	外国人は山手に住居を構え、居留地には事務所を置くスタイルになった。次第に、居留地の建物は石やレンガ造りの重
	厚なビルが立ち並び、神戸港を一望する山手の高台は、異人館による住宅地となった。

 

午後の集合場所となった「三井住友銀行神戸支店」前。ここも56番地の旧居留地である。

 


	この支店の建っている場所は、箏曲「春の海」の作曲で有名な宮城道雄が生まれた場所である。説明板には58番地で
	生まれたとある。スピーカーから「春の海」が流れている。

	<宮城道雄>

	明治27(1894)年4月7日、宮城道雄は菅(すが)国治郎とアサの長男、菅道雄として神戸三宮の居留地内に誕生。
	生後200日で眼疾を患い、8才で失明した。また、4歳の頃には生母と生き別れ、祖母ミネに育てられた。8歳で失
	明の宣告を受けた道雄は、生田流の2代中島検校(けんぎょう)に入門。11歳の時、3代中島検校より免許皆伝を受
	け、師匠の「中島」の1字を許されて、芸名中菅道雄となった。家庭の事情で道雄は13歳の夏、朝鮮の仁川(現韓国
	・インチョン)に渡った。昼は箏、夜は尺八を教えて一家を支える。14歳で処女作「水の変態」を作曲、この曲で伊
	藤博文に認められ、伊藤は道雄を上京させて後援することを約束したが、その直後伊藤は暗殺され、この約束は果たさ
	れなかった。
	京城(現ソウル)に進出した道雄は、結婚により宮城姓を名乗った。ほどなく朝鮮箏曲界でめきめきと頭角をあらわし
	た道雄は、22歳という若さでこの道の最高位である大検校となって当地箏曲界の覇者となった。しかし、道雄はそれ
	に満足せず、大正6年4月、青雲の志を抱いて上京したが、上京後まもなく妻が病死してしまう。
	大正7年、吉村貞子が極貧の道雄と結婚。やがて貞子の姪の牧瀬喜代子(宮城喜代子)、数江(宮城数江)が相次いで
	入門した。大正8年、葛原しげる等の後援により、本郷春木町の中央会堂で念願の第1回作品発表会を開催。雌伏2年、
	25歳にして、作曲家としても本格的にデビューする。
	自らの新しい音楽世界開拓のために宮城は日本の古典的楽器の改良や新楽器の開発を精力的に行い、その結果、十七絃、
	八十絃、短琴(たんごと)、大胡弓(だいこきゅう)を創り出した。宮城道雄は西洋音楽の要素を邦楽に導入すること
	によって、邦楽の活性化をはかり、新しい音楽世界を開拓し続けた。後にそれは「新日本音楽」運動と称されるように
	なり現代邦楽発展のための起爆剤となったの。特に昭和7年(1932)には、フランスの女流ヴァイオリニスト、ル
	ネ・シュメーと名作  を協演、好評を博した。その後、日、米、仏でレコードが発売されて世界的な名声を得ることに
	なる。
	古典の箏曲をこよなく愛した宮城は、その強弱法を巧みに使い分けた繊細、緻密かつ推進力のある卓越した名演奏で、
	古典を現代に蘇らせることに成功し、天才箏曲家とうたわれるに至った。その成果はレコード等録音資料によって現在
	もうかがい知ることができる。宮城は門人の指導に当たるばかりではなく、昭和5(1930)年からは東京音楽学校(現
	東京芸術大学音楽学部)でも教授することになる。そして、五線譜や絃名譜を積極的に活用したり、初心者用の箏や三
	味線のための教則本を作成、出版、また、ラジオによる箏曲講習など、新しい邦楽教育を実践した。また、大正14年
	(1925)のラジオ試験放送初日に出演した。以来、毎年の正月放送をはじめ海外との交歓放送、国際放送、また、放送
	による初めての箏曲講習などを行った。これら放送文化に対する多大の功績により、昭和25(1950)年に第1回放送
	文化賞を受賞した。
	昭和28(1953)年夏にフランスのビアリッツとスペインのパンプロナで開催された国際民族音楽舞踊祭に日本代表と
	して渡欧、第1位となった。また、イギリスBBC放送から「ロンドンの夜の雨」を放送初演した。
	昭和31(1956)年6月25日未明、「越天楽変奏曲」の演奏のため大阪へ向かう途中、東海道線刈谷駅付近で急行
	「銀河」から転落し、同日午前7時15分、刈谷の豊田病院で死去した。62歳。なお、墓所は東京都台東区谷中にあ
	りる。【「宮城宗家」宮城道雄より】

 




	<旧居留地15番館>(上左)

	旧居留地時代(明治元(1868)年〜三十二(1899)年)から唯一残る商館で、建築年代は明治十四(1881)年頃と推定
	されている。当初はアメリカ領事館として使用されていた。木の骨組みの間にレンガを積む構造で、南側にはベランダ
	のあるコロニアルスタイルとなっている。旧居留地の15番区に在ったことからこの名前がつけられた。
	現在の旧居留地のビル街風景の中では異質な存在だが、明治初期の居留地では、こうしたコロニアル様式の建物が主流
	だった。このタイプの建物の多くは、季節で気温差の大きい日本の気候に対応していて、柱廊やベランダ部分を窓ガラ
	スで覆ってサンルーム状にした例が多く、国指定前の十五番館にも同様の改修が施されていた。

	明治三十二(1895)年に居留地が返還されて以降も、土地や建物の永代借地権は居留地側の既得権として残った為、日
	本人や日本企業の居留地への進出が本格化するのは、大正後半以降のことになる。

 





居留地に設置された上下水道の土管が保存してある。居留地を抜けメリケン広場を目指す。








	上写真の右奥にメリケンパーがある。明治時代の初めここに小さな突堤があり、その先に桟橋があった。近くにアメリ
	カ領事館があったので、人々がメリケン桟橋と呼ぶようになった。後に、神戸港の発展と共にここも大きな桟橋となり、
	メリケン波止場と呼ばれるようになる。




	アメリカは、居留地が定められる前からここに領事館を建てていたので、実際は居留地内にはいなかった。しかし後に
	このあたりは、邦人と外国人の混合居住地域となったので、前述した、日本と条約を結んでいない国々の外国人は、多
	くが居留地に隣接したこの地域に住んだ。そうやって集まってきた人々が、自分の国の人々で廻りを固め、今に残って
	いるのが「神戸中華街」である。




	上左が、旧居留地の海岸通りを代表する建造物の一つ「海岸ビル」である。設計は河合浩蔵で、三井物産神戸支店ビル
	として、大正七(1918)年に建てられた。鉄筋コンクリート造りで、建物の細部にはルネッサンス様式の骨格に、装飾
	類は徹底した幾何学化がなされている。道路を挟んだ右側(東側)の建物は、大正十(1922)年に建てられた大阪商船
	(現商船三井)ビルである。



	この後例会は神戸市立博物館で開催されている「発掘された日本列島2004展」を見て、随時流れ解散ということな
	った。その模様は博物館めぐりのコーナー、「神戸市立博物館」に収録した。






おまけです。「神戸の夜景」

(クリックすればもっと大きくなります。)




 邪馬台国大研究・ホームページ /歴史倶楽部/ ひょうごの歴史