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ひょうごの歴史

蛭子神社・柳原天神社



	<大輪田泊(おおわだのとまり)・兵庫津(ひょうごつ)>

	現在の神戸市兵庫区は、大阪湾の北西部の湾曲部にある港で、古代以前は大輪田泊もしくは輪田泊とも言われた。
	瀬戸内海航路の物資集散地として早くから町場が形成され、港町として発展した。
	「行基年譜」天平十三(741)年記には、「大和田船息」がみえ、万葉集に詠まれる「神代より千船の泊つる大和
	田の浜」というのは、当地のことであるという説が有力である。また。弘仁三(812)年には、大輪田泊が修復さ
	れた旨が「日本後記」に記されている。延喜十四(914)年には三善清行により、行基が当地を瀬戸内海の重要な
	港湾としてとらえていたことを記している。

	古代、当泊は利用度の高い港湾だったが、朝夕の逆浪が起こり、防波堤が壊れやすい事から、しばしば、摂津国司
	や造大輪田泊使など、国家の手によって修復されたようである。
	11世紀になると、中国は宋船の往来があり、平氏は清盛の父忠盛の時代から九州の太宰府と共に当地を重用視し、
	宋の商人と直接貿易を行った。清盛はさらに当地を押さえ、国際貿易港にしようと企て、私費を投じて泊の大修築
	を計画し、人口の島「経ケ島」を築いた。さらに彼は当地に隠居し、治承四(1180)年、京都から当地へ「福原京」
	として半年間遷都した。清盛の求めに応じ、後白河法皇も当地をしばしば訪れている。このように、平家の主要な
	拠点でもあった事から、源平の合戦の主要な舞台ともなった。






	その後東大寺大仏再建で有名な重源(ちょうげん:遺跡巡り「狭山池」参照)などが泊の修復を行っている。また、
	時宗の開祖である一遍上人の終焉の地でもある。律宗を復興させた叡尊も当地で民衆に菩薩戒等を授けている。
	このように、有名な宗教者も当地を訪れ、布教活動や慈善行為を行っている。
	鎌倉時代の末期以降、当地は「兵庫(経)島」「兵庫津」と言われ商都として発展する。鎌倉時代後期には、当地
	での活動に対し、朝廷からも厚い保護を受けた東大寺に、兵庫津の利権が集中するようになる。しかし、東大寺に
	対する反発も大きく、石清水八幡宮や興福寺と争い、利権は複雑な様相を呈してゆく。

	文安二(1445)年、東大寺は当地を通る船が積載した物資に対し、関所を設け税を掛ける。その品目を記した有名
	な文書「兵庫北関入船納帳」は、中世の繁栄ぶりをよく表わしている。南北朝時代には両朝はよくこの地で戦い、
	足利氏と楠木、新田氏との戦いが行われた。「湊川の戦い」では楠木正成が戦死した。室町時代には遣明船の発着
	港ともなり、足利義満ほか、将軍が遣明船の発着を出迎えている。しかし、応仁の乱では当港は大きな打撃を受け、
	以後遣明船の帰着地を堺にとって代わられる。

	近世には、織田信長配下の池田氏が兵庫城を築き、以降、城下町として整備される。江戸時代には尼崎藩が当地を
	治め、江戸と上方を結ぶ中継の港町として、北前船や尾州廻船の拠点ともなった。また山陽道の宿場町も開かれ、
	ますます発展していった。朝鮮通信使も11回来津している。文人与謝蕪村と当地最大の豪商北風荘右衛門と交流
	があったことも知られている。18世紀には2万人以上が暮らす、文化的な交流の拠点とも言うべき大都市になっ
	ていた。
	幕末、プチャーチンのロシア船が大阪湾に侵入したことから、幕府は大阪湾沿岸地域防衛のため、湾岸各地に砲台
	を築いたが、当地の和田岬にも砲台を築いた。もっとも、砲台完成と前後して明治政府の成立をみたので、大砲そ
	のものは設置されていない。安正五(1858)年の日米修好通商条約により兵庫は、新潟、神奈川、長崎と共に外国
	へ開放されることになっていたが、地理的な条件、外国人とのトラブルの発生を考え、岬一つ東側の神戸村が慶應
	三(1867)年12月7日に開港されることとなった。以降、交易の拠点は東の神戸村(今の中央区)へ移ることに
	なり、明治になるとすぐに、県庁も当地から神戸に移る。一方、当地は、苦難の上、兵庫運河が開通し、周辺には
	造船業、紡績業の工場や倉庫が建ち並ぶようになり、港町から、近代産業の拠点へと変貌を遂げ、神戸の近代化に
	寄与していくことになる。






	上記のように、兵庫県、神戸市は、機会を見つけては「兵庫津」の遺跡・遺構を発掘調査している。上記の資料は、
	神戸博物館の口野さんが今日の見学会のために用意してくれたものだが、これを見ると次第に明らかになっていく
	兵庫の様子が窺える。この後午後から、これらの発掘調査の成果を集めた展示会も見学できるので、非常に楽しみ
	だ。








	<柳原惣門跡>

	兵庫の町に西国街道が入ろうとする西側の地点にこの門はあった。また、町の東側には湊口の総門があった。これ
	らの門は、町の出入り口として機能したと考えられる。織田信長の家臣、池田恒興による兵庫城の建設に伴い造ら
	れた、外曲輪の土塁に伴って立っていた門と考えられる。門の設置や廃絶の時期はよく分かっていないが、曲輪の
	造られた天正八(1580)年頃に造られたと考えられている。また明治八(1876)年の土塁の撤去に伴い、門も撤去
	されたと考えられる。
	平成14年度に行われた神戸市の発掘調査では、外曲輪堤と外堀、総門の柱石柱が見つかり、本柱と控柱の寸法が
	六尺(1.8m)程度である事がわかった。





 

 






	<柳原蛭子(えびす)(神社>

	創建年代は不詳だが、元禄五(1692)年の兵庫津の「寺社改帳」に出てくる。現在は「柳原のえべっさん」とい
	う愛称で親しまれ、毎年、1月9日〜11日の「十日えびす大祭」は商売繁盛や家内安全、学業成就を祈して、
	多くの参拝者で賑わうそうである。また、門前には明治維新まで高札を掲げる札場があった。籠屋も集まってき
	たことから、「棒鼻」(かごのかつぎ棒の端)の別称がある。
	社記によると、「往古、蛭子命天磐櫞船に乗りて淡海島より津国に遷座し、一社が創建された。」となっている。
	その昔、毎年8月22日には、西宮神社の兵庫までの神幸の渡御が行われていた。往路は、海上20kmを兵庫津
	和田岬まで渡御し、還幸は陸路西宮内町を通って西宮へ還った。その当時の社地は西宮内町にあり、神輿の行在
	所となっていた。後に現在の柳原の地に遷座し一社として創建された。光格天皇の御代には、奉幣御勅使の代参
	もあったと言う。




	蛭子神社の祭神は、蛭子大神(ひるこのおおかみ=えびす天)と大物主大神(おおものぬしの神=大黒天)であ
	る。主祭神の蛭子大神は、えびす天の総本山と呼ばれている西宮神社と同じ祭神であり、漁業や海上安全、特に
	商売繁盛の神様で有名である。また、えびすという言葉は、その字も様々で、戎・恵美須・恵比寿・恵比須等が
	ある。




	この「えびす」という名前は、実は、我が国の古典・神々の系譜には、その姿を現していない。その正体を古典
	の中から探ろうと、これまで多くの研究があったが、よくわからないようである。 

 


	「えびす神」の中でも一番古くから語られているのが、『古事記』『日本書紀』の国生みの段に登場するヒルコ
	(蛭子)の神である。この神は、イザナギ・イザナミの神が日本国土を創世する際に、その子として生まれたが、
	手足の不自由な負具者と描かれ、天磐樟船(あめのいわくすぶね)に乗せられ川に捨てられたと記されている。
	後に、鎌倉時代の『源平盛衰記』には次のような記事が登場する。
	「蛭子は3年迄足立たぬ尊とておはしければ、天磐樟船に乗せ奉り、大海が原に推し出されて流され給ひしが、
	摂津の国に流れよりて、海を領する神となりて、戎三郎殿と顕れ給うて、西宮におはします。」
	鎌倉時代には 、このように、ヒルコ神がえびす神という認識がなされていたようである。




	もう1神が事代主神(ことしろぬしのかみ)である。この神は『古事記』『日本書紀』によると大国主の子であ
	るとされている。いずれにも船に乗っていたり、海辺で魚釣りを楽しんでいたように伝えられており、その様子
	がえびす天の釣り姿と結びつくところから「えびす神」の神格に繋がるようである。またこの事代主神は、近畿
	一円のみならず広く全国の神社で祭神とされている。



 


	通りを隔てた蛭子神社の向かいには、福海寺がある。足利尊氏が建立したといわれる臨済宗の寺院で、本尊は釈
	迦如来で、「福原西国第23番札所 大黒天」となっている。こっちは「大黒天」(大国主命)である。
	足利尊氏や義満もたびたび訪れ、足利歴代将軍の厚い崇敬を受けた。もとは二本松(JR兵庫駅の西)の地にあ
	ったが嘉吉(1441〜3)の乱で焼失し、その後現在の位置に移ったと伝わる。兵庫の西の入口・柳原惣門の
	要所にあって大規模な様子から、兵庫城の守備の役目をしたとも思われる。

 


	<柳原天神社>

	社伝によると、昌泰四(901)年に菅原道真が筑紫に流される途中、暴風雨を避けて和田岬に滞在し、そのゆか
	りの地に太宰府の安楽寺廟から道真の分霊を受けて祀ったのが起源と言う。後に、真光寺の末寺である満福寺
	(現在神社の北隣)の境内に移して、鎮守としていたが、明治維新の神仏分離によって独立し、柳原天神社とな
	った。古記録では、元禄9年(1696)兵庫津絵図に見られる。






	平家一門や、隣接する満福寺の時宗門徒にも信仰を受けた。平忠度が奉納した「天神画像」が社宝となっている。
	江戸時代以降は、神戸市域の文京の租として信仰を集めた。太平洋戦争で昭和20年に社殿は焼けてしまい、現
	在の社殿は、昭和33年に再建されたもの。以前は現在地より15m程北にあったそうだ。
	「やなぎはらてん、じんじゃ?」なんか変な名前やなぁ、と思ったら由来を聞いて、「あ、そうか、やなぎはら、
	天神しゃ、なんや。」と納得。祭神は従って、菅原道真。他にも天之菩卑能命・野見宿祢命となっているが、天
	之菩卑能命・野見宿祢命の由来は不明。1月25日は初天神・7月25日は夏祭・10月25日は秋祭が行われ
	る。




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