Music: Yellow Submarine
太宰府天満宮
1996.6.8(月) 筑紫万葉のふるさと 




		
		仕事で今回は博多に行った。午後一番で仕事を終え、大阪から一緒に来ていた部下と別れ(彼は次の仕事へ行った。)、
		太宰府天満宮の散策を楽しんだ。博多駅から地下鉄で天神へ行き、天神から西鉄大牟田線急行で二日市まで約20分。
		太宰府線に乗り換え約5分。駅を降りるとすぐに天満宮の門前町が控えており、参道の両側は土産物屋と梅ケ枝餅
		(うめがえもち:太宰府の名物)を売る店でぎっしり。




 
	
	心という字を表しているという心字池。この池に架かる橋は太鼓橋と言い、手前から過去・現在・未来を渡ると言われており最初
	の過去の橋を渡る際は振り返っては行けない、とされている。

 
	
	下左は飛び梅。菅原道真が都から太宰府に左遷された後、道真を慕って都から飛んできたという伝承がある。道真は梅の花
	をこよなく愛していた。東風(こち)吹かば、匂いおこせよ梅の花、主なしとて春なわすれそ。という歌はあまりにも有名。
	名物「梅ケ枝餅」もこの故事によっている。

 

 



太宰府天満宮





太宰府政庁・復元模型(1/100)
	
	太宰府の中心部。重要な儀式などに使われた所で、奈良の平城宮の朝堂院に相当する。正面中央の南門、次の中門を入ると回廊で
	囲まれた広場があり、中央に正殿、その手前両側に2棟ずつの脇殿がある。正殿の後方の一画は政務を行う場所で、ほかにも政庁
	の周囲に多くの役所があった。この復元模型は、10世紀に立て替えられた建物をモデルにしている。


正殿の復元模型。上下いずれも、九州歴史資料館にある。












天満宮の裏手、光明禅寺の周りや、
九州歴史資料館への道筋に、
あじさいが鮮やかな色合いを見せて咲いていた。









 


太宰府駅から(左下)二日市へ戻り、福岡行き普通電車で二つ目都府楼前(右下)で降りる。
 
太宰府政庁跡(都府楼跡)へ行く道すがらにあった中学校の門(下右)。この街は、学校も天満宮風である。
 



 
	
	太宰府政庁跡は、現在史跡公園として整備され、時折アベックやお年寄り達が訪れるだけの静かな場所である。都府楼跡の碑が
	あるところは、何やら発掘作業みたいな事をやってて側まで行けなかった。

 
	
	大和朝廷は宣化元年(536)筑紫菅家を那の津(現在の福岡市南区三宅あたりか?)に設けたが、7世紀後半に白村江(はくすき
	のえ)の戦いで唐・新羅連合軍に敗北。海に近くては危険との判断から、政庁を太宰府に移した。以来数百年、太宰師(そち)
	として大伴旅人や山上憶良らも西下。万葉筑紫歌壇の舞台となった。この政庁(都府楼)跡は、昭和43年から発掘調査が始ま
	り、華やかな時代の遺構、遺物が次々と出土した。それらは、この史跡の脇に建てられている太宰府展示館や、太宰府資料館、
	九州歴史資料館、観世音寺収納藏等に分散して保管されている。

 
広い都府楼跡の礎石や石段に、遠いいにしへの万葉人達の心が残っているような気がする。
 



太宰府政庁(都府楼跡)






	
	奈良時代、観世音寺に戒壇院が置かれた。戒壇とは僧尼として守るべき戒律を授ける所で、ここで戒を受けなければ正式な僧尼
	とは認められなかった。戒壇はここのほかに、奈良の東大寺、下野(栃木県)の薬師寺に置かれ、天下三戒壇と呼ばれた。本尊
	の廬舎那仏(るしゃなぶつ)は、平安末期の作で重要文化財である。説明版にあるように、江戸時代に観世音寺を離れ、現在は
	禅寺である。

 




戒壇院





	
	「源氏物語」にも登場する観世音寺は、斉明天皇追悼のために天智天皇の発願によって建てられた寺である。完成は奈良時代。
	古くは九州の寺院の中心的存在で、沢山のお堂が建ち並んでいたが、現在は江戸時代はじめに再建された講堂と金堂の二堂があ
	るのみである。しかし、往時の大きさをしのばせる日本最古の梵鐘(国宝)や、平安時代から鎌倉時代にかけての仏像(全て重
	要文化財)が数多く残り、境内はクスの大樹に包まれ、藤、紫陽花、萩と、花々が季節の移りを知らせてくれる。

 
下左は観世音寺収納藏。上右が国宝の梵鐘。
 



観世音寺






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