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佐紀古墳群・平城宮跡をゆく 2001.2.25 歴史倶楽部第46回例会


	平成13(2001)年2月25日日曜日、「歴史倶楽部」の例会は、奈良に住む橋本さんの案内で「佐紀古墳群と平城京を歩いた。近鉄西大寺
	駅に集合して、まず、平城京へ。
	それから佐紀古墳群の天皇陵等を見て、元明・元正天皇陵へ。さらに不退寺、法華寺を見て「長屋王」邸宅跡で終了、反省会というコ
	ース。我らが会にしてはよく歩いた。







平城宮を行く

 


	広い平城宮跡はいつ来ても気持ちがいい。野原に寝ころんでいっぱいやりながら空を見るのは、考えたら最高の贅沢かもしれない。
 

 






	おっさんばかりズラリと並んだらちょっと異様やね。うぅ〜んと、この写真は誰が写した?河原さんか。










平成天皇陵<平城京の真北にある>





仁徳天皇皇后磐之媛命(いわはのひめのみこと)陵

 


	仁徳天皇の嫁半は怖い。天皇はその名の通り「仁徳」であるが、奥さんは違ったようである。嫉妬の固まりのような夫人で、仁徳天皇
	は息が詰まっただろうと思う。
	エピソードの数々は日本書紀にある。夫の浮気に怒って、筒城宮(つづきのみや)に逃げ込んで帰ってこない。そしてそこで崩御し平
	城山(ならやま)に葬られたとある。

 







元明・元正天皇陵へ



 





不退寺(不態寺?)

 




	何の気なしにみんな門をくぐったら、坊主がでてきてぞんざいに「帰れ、帰れ!ここは有料やで!」と追い返されたそうである。私は
	後ろの方に居たので子細はわからないが、なんでも、さも我々が不正にただで入場していると言わんばかりの剣幕だったそうである。
	「いくらか解れば払ってやらんことは無いんやど」「!有料なら有料とちゃんと書いとけ!」
	とみんなの怒ること怒ること。「あんなやつは坊主の資格なんかあらへんで」、とまだ腹の虫が治まらない面々は寺に向かって悪態を
	ついていた。確かに最近の坊主は態度が悪い。

 





法華寺


	元明・元正天皇陵からバスに乗り、途中で乗り換えて「法華寺」で降りた。平城京に近く広々としている。
	聖武天皇夫人光明皇后が創建し、総国分尼寺になった寺。本堂が堂々としていて迫力がある。(重要文化財:安土桃山時代)

 



 

 


	聖武天皇夫人光明皇后(藤原不比等の娘光明子)は、人臣として初めて皇后となったが、天平9年(737年)疫病が大流行し、光明皇后の
	兄弟、房前、武智麻呂、麻呂と宇合の藤原4兄弟も次々にこの病に倒れた。皇后は、難病者たちを自らこの風呂に入れ介護したと伝えら
	れる。天平12年(740年)、藤原広嗣の乱の翌年、光明皇后42才の時(天平13年(741年))、聖武天皇は「国分寺、国分尼寺の詔」を発す
	るが、光明皇后が創建したこの法華寺も総国分尼寺となる。東大寺大仏の開眼供養が行われたのは天平勝宝4年(751年)で、光明皇后は
	52才であった。光明皇后は賢夫人として名高いが、天平宝宇4年(759年)6月、60才で崩御した。

 

 



奈良県月ヶ瀬村から運んだという民家が移築してある。

 

 

 




	法華寺は天平時代、光明皇后の勧めにより日本総国分尼寺として創建されたが、正式な寺号は「法華滅罪寺」である。光明皇后の
	生家、藤原不比等の邸が寄進されて寺となった。皇太子を満一歳前に亡くし、また天然痘で兄弟の藤原四卿を失った皇后の悲しみ
	が、「滅罪寺」という名前を付けさせたのかもしれない。



 

 




	奈良市 法華寺境内 藤原不比等の邸宅跡?  <yomiuri.online>

	  

	奈良市の法華寺境内で、旧講堂の基壇下から宮殿並みの規模を持つ柱穴が、奈良文化財研究所の発掘調査で出土していたことが二十七
	日、わかった。平城京の中枢部に、法華寺の創建(八世紀半ば)以前にあった豪壮な建物の遺構で、藤原不比等(六五九―七二〇年)
	の邸宅跡に、同寺が建てられたと伝える記述が「続日本紀」などにあることから、不比等の邸宅跡の一部とみられる。古代屈指の大政
	治家でありながら、未解明な点が多い不比等の実像を探る貴重な資料になる。

	◇直径1メートル柱穴が出土 平城宮の内裏並み

	防災工事に伴い、平城宮跡の東に隣接する境内を発掘し、南門付近で昨年暮れ、旧講堂の基壇(残存の高さ三十―五十センチ)とみら
	れる盛り土や凝灰岩などが初めて出土。その下に、掘っ立て柱建物の柱穴一基(直径約一メートル)が見つかった。
	柱は抜き取られていたが、推定の直径は三十センチ前後。平城宮の内裏の柱穴に匹敵する大きさだった。

	 出土した法華寺旧講堂の基壇の凝灰岩と、その下の柱穴(奈良文化財研究所提供) 

	法華寺については、続日本紀に七六六年、称徳天皇が「わが外祖父の藤原大臣(不比等)の家に在り」と語る記述がある。十三世紀半
	ば、同寺で見つかった天平宝字三年(七五九年)の金銅板には、不比等の娘の光明皇后が「居宅を捨てて伽藍(がらん)を建てた」と
	あり、不比等邸跡に寺を建てたと推定されてきた。
	しかし、寺が現存するうえ、旧寺域の大半も住宅地のため、広範囲の調査が行えず、一九五二年以降、境内や周辺で十数か所の建物遺
	構が出土したが、年代や性格は特定できなかった。
	今回、主要な伽藍の旧講堂直下に柱穴があり、遺構が重なることから、法華寺は大きな建物を壊した跡に建てられていると判明。当時、
	これだけの規模の建物は、不比等邸以外にはないとみられる。
	不比等は大化改新の立役者、藤原鎌足の二男。大宝律令編さんに加わり、平城遷都を進めたとされる。天皇家と外戚(がいせき)関係
	を築き、藤原氏繁栄の基礎を築いた。

	黒崎直・富山大教授(考古学)の話
	「建物の位置や規模は権威の巨大さにふさわしく、不比等の邸宅跡とみて間違いないだろう。今後、木簡などの文字史料の発見に期待
	したい」(2004年4月28日)



	藤原不比等邸宅跡、古代の政略家 実像に光  <yomiuri.online>
 
	 藤原不比等の肖像(奈良県桜井市の談山神社提供)

	大宝律令編さん、平城遷都、日本書紀の完成――。いずれの事業にも深くかかわったとされる藤原不比等(六五九―七二〇年)。古代
	日本の国家体制が整えられる時期に、抜群の功績があったにもかかわらず、現存する史料は断片的で、その生涯には多くの謎が残る。
	二十七日、明らかになった奈良市の法華寺境内の不比等邸とみられる建物跡は今後、「等しく並ぶ者なし」との名を持つ大物政治家の
	知られざる実像に光をあてそうだ。

	◇謎に満ちた生涯 専門家 「天皇との近さ示す」

	邸宅跡が見つかった奈良時代の有力者では、一九八八年の発掘で、名前を記した木簡が出土した悲劇の宰相、長屋王が知られる。
	最近の研究では、不比等邸の敷地は、法華寺に隣接する海龍王寺を含む「八町」(約十三・五ヘクタール)と推定。長屋王邸の二倍、
	孫の太政大臣、仲麻呂邸の一・五倍に相当し、突出した広大さを持つとされている。

	
	藤原不比等の邸宅跡とみられる柱穴が出土した法華寺(手前)。中央下が本堂。上は平城宮跡(本社ヘリから) 

	一方、不比等について具体的に描写している文献はなく、木簡などの出土もない。正史に登場するのは三十歳を超えてからで、それ以
	前はほとんどわからず、奈良時代後期に著された藤原氏の人物伝「藤氏家伝」も、上巻は鎌足伝、下巻は不比等の長男の武智麻呂伝で、
	「不比等伝」はない。だが、不比等の子孫は父の威光で権力を掌握した。
	不比等の娘の宮子は文武天皇の妻で、聖武天皇の母。さらに聖武天皇の妻、光明皇后も不比等の娘だった。息子四人も南家、北家、式
	家、京家の「藤原四家」を興して朝廷の要職を独占し、藤原氏の隆盛は平安時代まで続く。
	絶大な政治力をうかがわせる不比等は、その時代、なぜか、左大臣や太政大臣の要職に就くことを固辞。その下の右大臣にとどまり続
	けている。

	上田正昭・京都大名誉教授(古代史)は「影にいた方が、政治を進めやすかったのではないか。史料の少なさも、証拠を残さなかった
	からとも言える。政敵を意識した政治的な展望の確かさだ」と話す。
	不比等のフィクサーぶりを指摘するのは、千田稔・国際日本文化研究センター教授(歴史地理学)。「今回の成果から、不比等は天皇
	に最も近い場所にいたことがわかる。賢く、表に出ない政治家は、現代にもいる」という。さらに「詳細がわかっている長屋王邸との
	比較で、当時の権力者の暮らしぶりが解明できれば」と今後の調査に期待した。
	今回の発見について、法華寺の久我(こが)高照門跡は「信仰あつかった光明皇后様がお父上の財産を喜捨し、慈悲の心を持って衆生
	を救おうと寺をお建てになった由緒がわかり、ありがたいことです」と喜んだ。(2004年4月28日)
 


長屋王邸跡(現奈良そごう)




	膨大な木簡資料が出土して、一気に平城京の生活や時代考証が進んだ「長屋王」の邸宅は、いまや百貨店の建物の下である。




	ここから出たんだぞ、ということを知らせる碑が、建物の隅に建てられているが、道行く人は気にもとめていない。そごうが傾いた
	のはすべてこの「長屋王」のたたりだと言う人もいる。

 





新大宮にて反省会


	今から開けるところだという焼鳥屋を無理矢理開けさせて、東江さんがつれてきた山本さんも参加して反省会。山本さんも倶楽部に
	参加してくれるかなと期待したが、「歴史には全然興味がない」とのこと。「えぇっ、では今日は何のために?」と聞いたら「歩く
	ため」らしい。東江さんとは、単なる飲んべえ友達のようだ。



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