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		このホームページは、城を目当てに散策した記録ではありません。旅行、営業、古代史の遺跡・史跡探訪のついでに訪問したものを
		順不同で並べています。増えてきたら地域別とかに整理するつもりですが、今はタダ羅列してあります。また、私は城郭については
		殆ど素人ですので、解説も通りいっぺんのものにしかなっていません。ご了承下さい。






































毎月自宅へ送付されてくる、VISAカードの機関誌「VISA」2012年6月号にお城の話が載っていて、面白かったので転載する。













私は東京時代、よく皇居で昼寝をして仕事をさぼった。すっかり眠り込んで、皇居警備のパトカーに起こされたこともあった。




帰雲城

	数年前wifeと信州を旅したとき、白川郷へ向かう手前に「帰雲城跡」の碑を見つけた。全くこの城のことは知らなかったので、帰雲城
	(きうんじょう)という名前のカッコ良さと、一夜にして地中に没したという数奇な運命に、その存在の信憑性に多少疑義は感じなが
	らも、妙に記憶に残っていた。それが先日、約30年ぶりに半村良の「妖星伝」を読み返したら、この城のことが載っていた。小説の
	内容は殆ど忘れてしまっていたのだが、さすがは半村良だと感心しながらも、また行ってみたくなった。


	帰雲城   出典:インターネット百科事典 [ウィキペディア]

	帰雲城(かえりくもじょう)は、今の岐阜県大野郡白川村保木脇(ほきわき)にあったとされる城である。帰雲城は当地の有力武将で
	ある内ヶ嶋氏の居城であった。寛正年間に内ヶ嶋為氏により築城された。
	天正13年11月29日(1586年1月18日)に天正大地震が起き、帰雲山の山崩れで埋没。城主の内ヶ嶋氏理ら一族は全て死に絶えてしまい、
	この瞬間をもって内ヶ嶋氏は滅亡してしまった。また、そのとき埋まったとされる埋蔵金伝説があることで有名。
	なお、城のあった正確な位置は現在も特定されていない。保木脇に帰雲城趾の碑が建っているが、その場所が城跡であるとの確証は得
	られていない。
 
	<願泉寺資料>
	泉州貝塚(現在の大阪府貝塚市)にある願泉寺住職道喜(宇野主水)が安土桃山時代につけていた日記、『貝塚御座所日記』に以下の
	記述がある。

	天正十三年七月五日、未刻、大地震。天正十三年十一月十一日、夜九ツ半地震。この頃「光るもの」みたるもの多し。廿九日夜四ツ半
	過ぎ大地震、十余日止まず。京都三十三間堂の六百体の仏像すべて倒る。飛州の帰雲と云う在所内島と云う奉公衆ある所なり。地震に
	山をゆりくずし山河多くせかれて、内島の在所へ大洪水はせ入って、内島一類地下人にいたる迄残らず死たる也。他国へ行きたる四人
	残りて泣く泣く在所へ帰りたる由。彼の在所はことごとく渕になりたる也。 

	他、「越中国名跡志」という史料にも同様の記述があると言われる。

	<研究書>
	まぼろしの帰雲城 - 佐々克明による研究書。新人物往来社1972年刊。絶版
	帰雲城大崩壊 - 上と同じく佐々克明による続編の研究書。書苑1985年刊。ISBN 4915125521 絶版
	歴史の足跡をたどる日本遺構の旅 - 詳細な地図や豊富な資料、貴重な写真・図版満載。
		「なるほど知図bookまっぷる選書」 昭文社2007年刊。ISBN 9784398143051
	『消えた戦国武将 帰雲城と内ヶ嶋氏理』加来耕三による研究書。メデイアファクトリー社。	



帰雲城趾の碑 (2010年(平成22年)撮影)







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