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早春の淡路島をゆく

貴船神社遺跡 兵庫県淡路島 2005.2.27





	明石大橋を渡りサービスエリアで休憩後、地道へ降りて最初の見学地が、製塩遺跡として最近発掘された「貴船神社
	遺跡」である。兵庫県津名郡北淡町野島平林に所在し、瀬戸内海を望む景色のいい所だ。

	万葉集に「名寸隅(なきずみ)の 船瀬(ふなせ)ゆ見ゆる 淡路島 松帆(まつほ)の浦に 朝凪(あさなぎ)に
	玉藻(たまも)かりつつ 夕凪に 藻塩焼(もしおや)きつつ海をとめ ありとは聞けど 見にいかむ」(巻第六 
	九三五)という長歌がある。
	この歌の塩づくりの情景を彷彿とさせる遺跡が、今回発掘された貴船神社遺跡である。遺跡は、阪神・淡路大地震の
	爪痕が残る野島断層沿いの淡路島西浦海岸に位置し、播磨灘に面している。背後には貴船神社のある丘陵があり、海
	と丘陵の間に南北に細長く広がった砂堆の上に立地している。晴れた日には、播磨灘をはさんで明石市から姫路市の
	海岸線はもちろん、遠くは瀬戸内海に浮かぶ小豆島はもとより、四国まで眺望できるそうである。発掘調査は、平成
	7年7月から12月まで行われ、その結果、古墳時代中期から奈良時代(5世紀から8世紀)にかけての製塩遺構がみ
	つかり、兵庫県下では初めての、本格的な製塩遺跡となった。








	塩づくりは縄文時代から行われているが、西日本では弥生時代になって、紀淡海峡に面した地方や備讃瀬戸などで、
	広く行われるようになる。当淡路島でも、弥生時代から、塩づくりが行われたことが分かっている。貴船神社遺跡で
	は、和歌山県や大阪府側での塩づくりが衰退する、古墳時代後期に最盛期をむかえている。
	塩づくりには、濃縮した海水を作る工程と、さらにその濃い塩水を煮詰めて塩をとりだすという2つの工程が必要で
	ある。最初の工程については、文頭の歌にみられる、「藻塩焼き」をあてる考え方もあるが、実際、古代の方法はよ
	く分かっていない。最近では、藻につく微小な貝の有無を確認することで、藻塩焼きを具体的に証明しようとする研
	究がおこなわれていることから、今回の調査でも、この方法が用いられたが、微少な貝は検出できず、明らかにはな
	らなかった。






	次の塩をとりだす工程は、濃縮した塩水を土器に入れ、炉の上に並べて煮詰め、水分を蒸発させて、残った塩だけを
	とりだす。この時にに使う土器を「製塩土器」と呼んでいる。今回の調査では、炉跡とたくさんの製塩土器が見つか
	った。炉は、確実なもので22基見つかっており、壊されたものや不定形なもの、小規模な集石も数えると、当時使
	っていた炉の数はもっと多いと考えられる。炉跡は石敷炉と呼ばれるものが大半だが、石囲炉や石を2列並べた炉も
	あった。石敷炉(いしじきろ)の多くは径60cmpから120cmの規模で、形は円形や楕円形、さらには隅丸長方
	形といろいろである。すべて石をぎっしり敷き並べていた。炉に使われている石材にはチャート、花崗岩,砂岩など
	がある。花崗岩や砂岩は焼けると割れやすいので、元の形を残していないものも多く見うけられた。
	製塩土器は、塩水を煮詰め塩を取り出した後、廃棄されるため、炉の周辺では多量に出土する。今回見つかった製塩
	土器は、弥生時代の終わり頃から奈良時代までのものだが、特に古墳時代後期の製塩土器は、層になった状態で出土
	し、土器捨て場そのものだった。恐らく、この地で塩づくりは、この時期が最も盛んであったと思われる。








	そのほか注目される遺物としては、朝鮮半島から運ばれた新羅陶器がある。両肩に把手が2個ずつ対につけられた樽
	形陶器の破片である。把手は3個出土し、サルのような顔がヘラ先で描かれており、この顔が大変ユーモラスだ。



 


	このほか、塩づくりに係わった人のものと考えられる竪穴住居跡2棟と墓が見つかった。住居跡は、1辺4m前後の
	方形で、北側に竈(かまど)を設け、砂地のため床面には粘土を敷いていた。墓は、石を組み合わせた箱式石棺である。
	かって発生した地滑りの影響で壊れており、全体の規模は明らかではないが、幅40cm・長さ170cm以上であ
	る。興味深いのは、箱式石棺の内側が焼けていることであるが、その原因・主旨は不明である。副葬品は未使用の製
	塩土器だけで、他のものよりは丁寧に作られていた。




	遺跡の周辺は野島と呼ばれ、その地名から『日本書紀』や『万葉集』にも記載がある「野嶋海人(のじまのあま)」と
	深くかかわりあった地域とされている。野嶋海人は天皇の食料の調達をつかさどった氏族といわれているが、今回、
	製塩跡がみつかったことで、塩づくりにも関係したことが考えられる。

 


	古代の淡路国は、『延喜式(えんぎしき)』や平城宮出土の木簡から、税として塩を納める国だったことが知られてい
	る。また、海岸部では、製塩土器を出土する遺跡が点々と見つかっていた。しかし、これまで炉跡を伴った製塩跡は
	なく、今回の調査によって、淡路での塩づくりの様子が、具体的に明らかになった。 





遺跡の裏手のこんもりした森に貴船神社がある。

 



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