Music: Across the Universe


飛鳥坐神社

2005.1.29 歴史倶楽部第93回例会




	飛鳥坐神社は元々「飛鳥の神奈備」と呼ばれる所に創建されていたと言う。社伝によると、飛鳥坐神社の創建
	過程は以下のとおり。
 	神代、天上界にいる高天原の神々(=天津神)が、地上界たる葦原中国に降臨して、地上界をも天津神が治め
	ようとした(『記紀』伝承の「国譲り神話」による)が、葦原中国には国津神と呼ばれる、地上界の神々がす
	でにいた。その統領だった大国主神(オオクニヌシノカミ。大物主神と同神)は、天津神側のその申し出を承
	諾し、自らの治めていた地上界を譲ることに決めた。その代わり、自分は出雲に社を建てて、出雲だけは自分
	の手で治めておきたい、と願い出て、さらに、自分の息子である事代主神(コトシロヌシノカミ)と娘の賀夜
	奈留美神(カヨナルミノカミ)を、飛鳥に社を建てることで、飛鳥・皇室の守護神としてほしいと願い出た。
	天津神側はこれを承諾し、大国主神は現在の出雲大社に奉祭され、子供達の事代主神・賀夜奈留美神は飛鳥神
	奈備に奉祭されることとなった、とされる。

 




	式内社 大和國高市郡 飛鳥坐神社4座(並名神大 月次/相甞/新甞) 旧村社

	「日本紀略」によれば、「大和國高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社、遷二同郡同郷鳥形山一依二神託宣一也」とあ
	り、元は賀美郷の甘南備山に鎮座していたとある。甘南備山の場所は、当社の西北700mの雷岳か、あるい
	は、明日香村橘と稲淵の境あたりと考えられているが、正確な所在地は不明。そこから天長六年に現社地へ遷
	座したが、当時は、もう少し南、酒船石の辺りではなかったかとも言われる。

 

 


	祭神: 事代主神,高皇産靈神,飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈流美乃御魂),大物主神
		(四座だが、異説も多い。)

	一書に曰く、

	事代主命・高照光姫命・木俣命・建御名方命 『大神分身類社鈔』
	大己貴命・飛鳥三日女神・味鋤高彦神・事代主神 『五郡神社記』
	事代主命・高照光姫命・建御名方命・下照姫命 『社家縁起』

	『出雲國造神賀詞』には、倭大物主櫛玉命を大御和の神奈備に、阿遅須伎高孫根命を葛木神奈備に、事代主命
	を宇奈提に、賀夜奈流美命を飛鳥神奈備に坐して、皇孫命の近き守り神とさせたとあり、大物主命・味鋤高彦
	神・事代主命・賀夜奈流美命の四座を合わせ祀ると思われる。当社地を、天照大神の旧地、大和笠縫邑とする
	伝承があり、近世では、「元伊勢」とも称していたと言う。

 

拝殿は修築中である。




	由緒:
		
	国のまほろば大和の国に古代より皇室の守護神として鎮まります当神社の主神、事代主神は恵美須神の御名で
	世に広く知られております。大国主神の第一子で父神とともに力を合わせ、この国土を拓き民の衣、食、住は
	勿論、その他万物の生きるための基礎作りをされた大神であります。
	古典によりますと、神代の昔皇祖天照大神が皇国の基を定めようとされ、大国主神のもとに国土を天の神に奉
	るよう御使を遣わされました。大国主神はその事を事代主神に相談され、そのすすめによって国土を捧げられ
	ました。そうして大国主神は、わが子事代主神を数多くの神々の先頭に立たせ皇祖に仕えさせたならぱ、皇祖
	の国づくりに逆らう神は無いであろうと、皇室の近き守護神として事代主神とその娘神、飛鳥神奈備三日女神
	(賀夜奈留美神)の神霊を奉斎なされたのが当神社の創建であって、実に神代から続いている大社であります。
	前述のごとく、この飛鳥の地に永く郡のあったことと神代に当社がこの地に創建されたとする伝承とは決して
	偶然ではなく、すでに神代の昔から大和の国は将来都と定めるべき美地なることを父神の大国主神は予知され
	ていたのであります。以来事代主神飛鳥神奈備三日女神を始め四柱の神々は協力して皇室の守護をはじめ、日
	本人に生活のあるべき道を教え、農業、工業、商業など、産業振輿の神として、その由緒の顕著なことは多く
	の古書に記述されているところであります。特に子宝、緑結ぴ、厄除、治病、製薬、交通安全、商売繁昌、家
	内安全、夫婦和合等、専ら国利民福の増進を図られ、その御神徳は著しいものであります。
	当社は、天武天皇朱鳥元年七月に天皇の御病気の平癒を祈る奉幣があったことにも示されるように、皇室の近
	き守り神として奉祀され、天長六年に神託により神奈備山より現今の鳥形山へ遷祀されました。延喜式によれ
	ば名神大社に列し、祈年、月次、相嘗、新嘗、祈雨等の奉幣に預かり、祈年祭には特に馬一匹を加えられまし
	た。正平元年八月後村上天皇より金五十枚を賜わり中ノ社が再建されております。このように朝廷でも一般で
	も広く尊崇せられたことが察せられます。
	降って寛永十七年(一六四○)に植村家政が高取城主として封ぜられると、当社がその城の鬼門にあたるため、
	特に深く信仰されました。元緑頃には境内に末社五十余社が存したが、享保十年(一七二五)に本社、末社と
	もに火災に会い、社殿の大部分が焼失したので、安永十年(一七八一)城主植村出羽守家利が再建し、天明元
	年(一七八一)正遷宮が行なわれました。これが現存の社殿であります。このように古代から数々の変遷を経
	て今に至っています。
	※相嘗祭……朝廷の特別に尊崇された大社に新米を奉られる祭である。名神社三、一三二座中僅に七一座に限
	られている。 −由緒書きより−
 
 




	2月第1日曜日にここで行われる「御田祭」は、民族学的にもめずらしい神事で、天狗とお多福の夫婦和合の
	さまが行われるそうである。この日は正午頃から天狗と翁の面をかぶった村の若者がササラを振り回して村中
	を暴れ回る。2時頃には天狗も翁も引き上げてしまい、一番太鼓を合図に祭事が始まる。これが済むと天狗と
	翁の農夫と、黒牛の縫いぐるみををかぶった牛男が農作業を演じる。二番太鼓で神官が「種まき」と「植つけ」
	をおこなう。三番太鼓を合図に、黒紋付に赤い蹴出しのお多福とチョンマゲのボテかつらに印袢天の天狗が寄
	り添って登場する。天狗がまず「汁かけ」の行事を行った後、お多福がコロリとあお向けに寝ると素早く天狗
	がその上に乗りかかり「種付け」をおこなう。「種付け」が終わると二人はやおら立ち上がって懐中から紙を
	取り出し、股間をふいてその紙を観衆に散布する。この「ふくの紙」を使用すると子宝に恵まれるという。
	めちゃくちゃ卑猥な内容のようだが、古代の日本は、いや近代でも、殆どこの祭りに行われるようなおおらか
	な「性」の解放があったのだろうと思われる。自然も動物も、勿論人間も神様も、すべては「種付け」から生
	まれてくるのだし、それを覆い隠すような事はせず、ひたすら賛美して讃えていたのである。 

 


	境内社の飛鳥山口神社も式内社(上右)。大和に六社ある山口坐神社の一つだが、元禄以後に飛鳥坐神社境内
	に祭祀されたもので、元の鎮座地は不明。大山津見乃神,久久乃知之神,猿田比古神を祀る。河内さんが、和
	合石の前に私を座らせて写してやるという。いまさら和合でもないが、霊験に期待しよう。


邪馬台国大研究・ホームページ /歴史倶楽部/新春の明日香村をいく