山田寺跡: 磐余道の南限に大化改新時の右大臣蘇我倉山田石川麻呂建立の大寺があった。中門塔・金堂・講堂と 南から北への直線式伽藍配置の建築様式だった。現地は水田の為礎石は殆どなくなる。昭和51年から毎年奈良国立 文化財研究所によって発掘、昭和58年まで8回に及び、皇極二年(643)建立と判明。東廻廊連子窓の発見で法隆 寺より古い寺院とわかる。廻廊の礎石や講堂跡出土の銅板五尊像・その東側出土の宝蔵跡などの発掘で、豪荘な大 寺であったと推定された。また、平成8年度の第9・10次調査で、南廻廊連子窓が発見され、すべてがうきぼりとな り、史跡公園として整備された。
磐余稚桜神社から、もと来た県道へ戻れば良かったのだが、そのまま道を突っ切って県道へ出れるだろうと判断し て(みんなが)、道に迷ってしまった。造成中の道やらよく分からん道を遠回りして、30分ばかり遠回りしてし まった。
<山田寺跡> 特別史跡 大正10年3月3日・昭和27年3月29日指定 奈良県桜井市山田944番地他 山田寺跡は、現行の行政区域では桜井市に所属するが、歴史地理的には明らかに飛鳥の地にある。創建に関しては、 「上宮聖徳法王帝説」にはこの浄土寺は山田寺のことであるとされている。 大化改新で、蘇我入鹿を目前にして上奏文を読み上げる役割を果たした蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだの いしかわまろ)。読み上げる声が震えていたので、いぶかった入鹿が怪しみ、すわ、と中大兄皇子が斬りかかった というのが通俗説である。その石川麻呂が、蘇我倉山田家の繁栄を願って創建したのがこの山田寺と言われる。 名前からも分かるように、入鹿とは従兄弟どうしだった。大化改新(645)で重要な役割をはたした石川麻呂は、 新政府で右大臣となる。大化5年(649)3月に左大臣阿部内摩呂大臣(あべのうちまろのおほおみ)が死亡。そ の1週間後、右大臣石川麻呂は謀反の疑いを受け、妻子ほか8人とともに建設中の山田寺仏殿において自殺した。 後に疑いは晴れ、工事は再開されたが、完成したのは着工以来実に45年の月日がたってからだった。 天武7年(678)鋳造の、講堂に祀られていた丈六薬師仏は、その後文治3年(1187)3月9日、興福寺の僧兵によっ て寺が焼き払われ、この時丈六薬師仏も強奪された。現在同寺の宝物館に収納されている仏頭がその時の丈六薬師 仏だといわれている。
杉や桜の境内林に入ると、右手に間口5mほどのお堂が立っている。今の山田寺では唯一の仏殿・観音堂である。 林の左奥には庫裏がたたずみ、玄関に「大化山山田寺」の木札が掛かっている。古い説明板の字がカスれている。 観音堂の前に山寺跡の石柱が一本建っている。この小さな森の背後が、「史蹟山田寺跡」である。
■濡れ衣を着せられ、自殺させられた石川麻呂 大化5年(649)3月24日、事件は石川麻呂の弟、蘇我臣日向(そがのおみひむか)の密告にはじまる。日向は 皇太子・中大兄皇子に、「僕(やつかれ)が異母兄・麻呂、皇太子の海浜に遊べませるを伺ひて、害はむとす。 反(そむ)きまつらむこと、其れ久しからじ」(日本書紀 大化5年3月の条)と告げる。「 私の異母の兄であ る麻呂は、皇太子が海辺で遊んでいる時を狙って暗殺しようとしています。」 と密告したのである。皇太子はこ の密告を信じ、天皇に伝えた。天皇は使いを麻呂大臣のもとへさしむけその虚実を問いただす。大臣は「問はせ たまふ報(みかへりこと)は、僕面(やつかれまのあたり)天皇之所(みもと)に陳さむ」「問われている事は、 天皇の御前で申しひらきをいたします。」と訴えるが、天皇は聴き入れず、軍を興こして大臣の宅を囲もうとする。
大臣はちぬの道(現在の大阪府泉佐野市付近を通っている道)より逃げて大和の国に向かう。山田寺の造営にあた っていた大臣の長男興志(こし)は、父が逃げて来ることを聞いて今来(いまき:大和国高市郡の総称)の大槻の 木の下で迎えて寺に入る。 興志は「自ら打って出て、来る軍を迎え防ごう」と進言するが大臣は許さず。その夜、興志、試みに小墾田宮(を はりだのみや)を焼こうと兵を集めるも、大臣から「汝(いまし)身(み)愛(をし)むや」と言われる。大臣は 山田寺にいる僧や長男の興志と数十人を集め、「夫れ人の臣たる者、安ぞ君に逆ふることを構へむ。何ぞ父に孝ふ ことを失はむ。凡そ、此の伽藍は、元より自身の故に造れるに非ず。天皇の奉為に誓ひて作れるなり。今我身刺 【身刺(むざし):蘇我臣日向のあざな】に譖ぢられて、横に誅れむことを恐る。聊に望はくは、黄泉にも尚忠し きことを懐きて退らむ。寺に来所以は終の時を易らかしめむとなり」と述べて、仏殿の戸を開き、仰ぎて「願はく は我、生生世世に、君王を怨みじ。」と言い残し、石川麻呂は首をくくり自殺、妻子のほか8人が殉死した。讒言 の翌日に、石川麻呂一族は滅びたのである。この事件の一月後、日本書紀、大化5年4月の条には、「夏4月の乙 卯の朔甲午に、小紫巨勢徳陀古臣に、大紫を授けて左大臣とす。小紫大伴長徳連字は馬飼に、大紫を授けて、右大 臣とす。」とある。
山田寺造営工事は当然中断されたが、程なく謀反は讒言であった事が発覚し、15年後に再開、天武天皇の時代に 塔を、続いて講堂を建てた。造営の継続には石川麻呂の弟の蘇我連子や、孫娘の鵜野讃良(うののさらら:後の持 統天皇)が深くかかわったとされる。寺観は平安遷都後も連子の子孫の石川氏などによって保たれていたが、やが て回廊が倒壊、12世紀後半には金堂や塔も焼失したようだ。今は特別史跡。その説明板に描いてある盛時の復元 図を見ると、金堂と中門は法隆寺と同じような二重屋根の入り母屋造り、塔は五重、回廊は片側通路の単廊、講堂 は平屋の入り母屋だ。伽藍全体に優美さが漂う。
<東面回廊> 〜山田寺・回廊跡の説明板より〜 山田寺では、塔と金堂のある中心区画の四方を回廊で囲んでいました。東面回廊の発掘調査では、建物全体が屋根 瓦もろとも西向きに倒れた状態で見つかりました。蓮弁(れんべん)を彫刻した礎石や基壇の縁石(ふちいし)が ほぼ完全な形で残っており、東面回廊は南北23間86.9m、基壇幅6.4mの規模であることがわかりました。 また、柱や連子窓(れんじまど)など多くの建築部材や表面に白土を塗った壁土が残っており、古代の建築技術を 知る貴重な資料となりました。北から13・14・15間目の部材はとくによく残っていたことから、保存処理を ほどこしたうえ元の形に組み上げ、飛鳥資料館で展示しています。
昭和57年、山田寺「東面回廊」発掘のニュースが新聞のトップ記事として報じられた。山田寺は、幾多の悲劇を 経て完成するも、平安時代には衰退し、大土石流等により地上からその姿を消していたが、1000年後の発掘に より日の目をみることとなった。そして、平成9年4月、我が国で最古の回廊建造物が、山田寺の近く飛鳥資料館 に再現された。
金堂跡の基壇前には畳より少し大きい礼拝石が敷いてある。石川麻呂は、ここから開扉した金堂を仰ぎ、身の潔白 を誓って死に臨んだのだろうか。錦織さんがその感慨に耽る。
発掘調査によって、塔と金堂が南北に一直線に並ぶ伽藍配置が明らかになり、さらに昭和57年暮れ、回廊の一部 が倒れたままの完全な姿で発見され、エンタシスの柱や連子窓など創建時の姿をしのばせる貴重な資料として、一 躍注目を浴びた。世界最古といわれる法隆寺よりも半世紀もさかのぼる木造建築物だった。発掘を進めていた奈良 文化財研究所が、南北87mの東回廊跡の中ほどを掘ったところ、倒壊した回廊の瓦が屋根に並んだ状態で現れた。 瓦を取り除くと、回廊が倒れた当時の姿をほぼ保ったまま見つかり、特に原形のまま出土した連子(れんじ)窓は、 学術的にも視覚的にも驚きの発見となった。研究所は部材を保存処理して回廊を一部復元し、約500m西の飛鳥 資料館に展示している。建物の基壇が整備され、中央北寄りに金堂、その南に塔、さらに中門と続き、中門の両側 から伸びた全長約330mの回廊が金堂や塔を囲んでいたことがわかる。講堂跡は回廊の北外側にあり、今は境内 林に覆われている。寺域の北を通る峠道は飛鳥と磐余(いわれ)、磯城(しき)を結んだ古代の大幹線・阿倍山田 道のコースである。沿道には奥山久米寺や安倍寺などの寺院が立っていた。その中で最も高い所にあったのが山田 寺であろう。華麗な伽藍はひときわ目立ったに違いない。