Music: Across the Universe


磐余稚桜神社

2005.1.29 歴史倶楽部第93回例会




	磐余稚桜神社: 桜井市の南に古くから磐余(いわれ)とよばれる地がある。天香久山の北側。古代、ここには磐余
 	池という大池があった。そして池のほとりに神功皇后の磐余稚桜宮、第17代履中天皇の磐余稚桜宮(いわれわかざ
 	くらのみや)、22代清寧天皇の磐余甕栗(みかぐり)宮、26代継体天皇の磐余玉穂宮、31代用明天皇の池辺雙
	槻(なみつき)宮などが営まれたと伝えられる。集落の入口に磐余稚桜神社がある。

	祭神: 出雲色男命 配 履仲天皇、神功皇后(旧末社高麗神社祭神) 




	由緒: 稚桜神社縁起	 『日本書紀』履中天皇の条。

	元年春二月一日、皇太子は磐余の稚桜宮に即位した。二年十一月、磐余の池をつくった。三年冬十一月六日、天皇は
	両股船を磐余の市磯池(いちしのいけ)にうかベた。妃とそれぞれの船に分乗して遊ばれた。膳臣の余磯(あれし)
	が酒を奉った。そのとき、桜の花びらが盃に散ってきた。天皇は怪んで、物部長真胆連(もののべのながまいのむら
	じ)を召して、詔して「この花は咲くべきでないときに散ってきた。どこの花だろうか。お前探してこい」と命じた。
	良真胆運はひとり花を尋ねて、掖上の室山で、花を手に入れて奉った。天皇はその珍しいことを喜んで、宮の名とし
	た。磐余若桜宮というのはこれがそのもとである。この日、長真胆達の本姓を改めて、稚桜部造とし、膳臣余磯を名
	づけて稚桜部臣とした。

	日本書紀に磐余の地に営んだと伝承されている、磐余稚桜宮(神功皇后・履中天皇)延喜式神名帳に、城上郡に若桜
	神社がみえているので、磐余稚桜宮と関係があるものと思われる。しかし現在若桜神社は桜井市の谷と池之内の二か
	所にあり、どちらも小字は「稚桜」となっている。現在、谷の若桜神社に、稚桜部朝臣を祭神として祀っており、近
	くに「桜の井」という井戸が伝承されている。これが桜井の地名のおこりの一つともなっている。




	夫の仲哀が崩じたあと神功皇后は、身重の体でありながら海を押し渡って新羅を討ち平らげ、帰国してから誉田別尊
	(ほむたわけのみこと)(応神)を生んだ。神功皇后は、その誉田別皇子を擁して、重臣の武内宿禰(たけしうちの
	すくね)らとともに大和に凱旋する。だがその大和入りはすんなりとは運ばなかった。仲哀の遺児であり、誉田別に
	とって異母兄にあたる香坂(かごさか)、忍熊(おしくま)の二王が抵抗したのである。この二人を討って大和に入
	った皇后は、稚桜宮において六十九年間摂政をつづけて百歳で崩じた。
	そして誉田別が即位して応神天皇となったと伝えられる。応神天皇は飛鳥へ、その子仁徳天皇は難波へ都を遷すが、
	つぎの履中天皇は曽祖母神功皇后の宮であるこの稚桜宮をふたたび都とするのである。






	日本書紀によると、「神功皇后三年春正月磐余に都したまう。これを稚桜宮という。また履中天皇元年春二月壬午
	(みずのえうま)のついたちに皇太子(履中天皇)磐余に都つくり十一月に磐余の池をつくりたまう。」とある。桜
	井の名のゆかりであり、桜が舞いちって天皇の盃に入ったという市磯(いちし)の池での宴遊もこのころのことだ。
	市磯の池については稚桜宮の内裏の前といい、現神社東側の水田がその跡にあたる。ちなみに『古語拾遺』ではさき
	の神功皇后の世を磐余稚桜朝と称し、あとの履中天皇の世を後の磐余稚桜朝としるしている。(桜井風土記より)




	<磐余玉穂宮跡>
	磐余稚桜宮跡(いわれのわかざくらのみやあと)である稚桜神社から約300メートル西南、池の内の村はずれに土
	地の人々が「おやしき」と呼んでいる小高い丘がある。東側半分は畑地で西の半分は櫟林(くぬぎばやし)だ。そし
	て北側の傾斜地は孟宗薮となっている。つまり橘街道へ出るまでのいわゆる「磐余の池跡」の西南に当たる台地だ。
	ここが継体天皇磐余玉穂宮跡だという。









邪馬台国大研究・ホームページ /歴史倶楽部/新春の明日香村をゆく