--------------------------------------------------- 【雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)】 --------------------------------------------------- 寛文8−宝暦5(1668−1755)。江戸時代中期の対馬藩(現長崎県対馬)の儒学者。近江国雨森(滋賀県高月町雨森)に生 まれる。17歳の頃、江戸で儒学者木下順庵の門下に入り儒学を学ぶ。英才を賞され門下五賢徒の一人に挙げられた。同門 下に新井白石がいた。順庵の推挙で対馬藩に仕え26才の時初めて対馬に赴任した。24才から中国語を学んでおり、36 才の時には釜山に渡って、朝鮮の地理・歴史・朝鮮語を学び、初めての日朝会話集「交隣須知」を著した。62才で、ハン グル・カタカナを併記したユニークな朝鮮語の入門書「全一道人」も著した。第8次・第9次の通信使来訪時には、一行に 加わり、対馬−江戸を2度往復した。この経験をもとに61才の時著した「交隣提醒」の中に、芳洲の先進的な国際感覚、 人間性が表現されており、近年、幕藩体制下における隣国朝鮮との交流史が見直されつつある時、雨森芳洲も一躍クローズ アップされ始めた。晩年は和歌を志し、80歳を過ぎて1万首を製作している。宝暦5年(1755)対馬で永眠、対馬府中 (現厳原町)の長寿院に眠る。享年88歳。
JR大阪駅のパンフレットで上のようなイベントを知った。北びわこ周遊観光フォーラムという団体が主催して北国バス株 式会社が運行する、北琵琶湖周辺の遺跡・旧跡を訪ねるバスツアーである。3コースあって、どこでも好きな所を乗り放題 降り放題で、一日乗って300円という催しだ。その中にこの「雨森芳洲庵」を見つけて、こりゃいいやと早速行ってみる ことにした。聞けばもう何年か前から行われているそうで、いろんな所でいろんな町おこしが行われている。
--------------------------------------------- 【滋賀県伊賀郡高月町雨森地区】 --------------------------------------------- 高時川のほとりに戸数100戸余りの雨森地区がある。家々の脇の水路にはコイやフナが泳ぎ、水車が回り花があふれる心 なごむ落ち着いた町である。ここにこの地出身の国際人・雨森芳洲を記念して、昭和59年、雨森芳洲庵が造られた。芳洲 は江戸時代中期、対馬藩の朝鮮外交・貿易などに活躍した儒学者で、建物は、滋賀県の「小さな世界都市づくりモデル事業」 の採択を受けて、ヒノキ造りの書院風建物として誕生した。
雨森芳洲の出生地は、一応ここの雨森村であるというのが定説だが、京都、伊勢説もある。雨森氏は江北の土豪として知ら れ、戦国期には浅井家に仕え数々の武将を輩出したが、小谷城落城・主家滅亡に際し没落したという。また織田信長の浅井 攻めの時、秀吉の行った皆殺し作戦で、芳洲の祖先はことごとく抹殺されたとも言われる。芳洲の父清納は京都で町医者を 開業。芳洲も幼くしてみずから医学を志すが、のち儒学に転じ柳川震澤(1 650〜90) に師事。父没後の18歳頃江戸へ出て 木下順庵(1621〜98) に入門。新井白石(1657〜1725) ・室鳩巣(1658〜1734) ・榊原篁洲(1659〜1706) ・祇園南海(1677 〜 1751 )らと共に「木門の五先生」に数えられた。「文は芳洲、詩は白石」と称されるなど、文章の秀逸さは木門随一で、順 庵は「後進の領袖」と評した。
朝鮮通信使の一行は、高月町の約20km南を通る中山道を往来した。通信使の直接の経路からは離れる高月町だが、町内 には通信使に関連する資料がいくつか残されている。多くは通信使の来日にかかる出費増にともない幕府・大名など領主か ら村々に課せられた、いわゆる臨時徴税と出役(助郷)に関わる古文書で、町内森本・柏原・片山区などで確認することが できる。
太陽が照りつける暑い夏の日、遠くの峰々を望みながら高時川を渡って雨森の集落に入るとすぐに、天川命神社があった。 見上げるようなイチョウの大木が立っている。神社の起源は不明だが、足利高氏が鎌倉幕府の六波羅探題を攻め落とした時 に、光厳天皇が京からここまで逃れて大杉の下で雨をしのいだという説明板が立っていた。その大杉はすでに枯れて、今は 2代目の木が植えられているとある。この神社のすぐ近くに雨森芳洲庵がある。
----------------------------------------------------------------------------- 【雨森芳洲庵(雨森芳洲生家:東アジア交流ハウス))】 ----------------------------------------------------------------------------- 落ち着いた町並みの水路には水車が回っていて、その真向かいに雨森芳洲庵がある。水路には普段はコイやフナが泳いでい るそうだが、数日来の雨で水路は濁っており、再び澄み切った流れになるまでみんな生け簀へ移されたそうだ。
門を入った左側に大きなケヤキの大木が植わっている。槻(つき)がケヤキの事だとは知らなかった。高月という地名も、 元は「高い槻のある地=高槻」だったらしい。平安時代に月の名所として歌に詠まれたことから高月となったそうである。 雨森一族の館で芳洲の生家跡というこの地に書院が建てられ、芳洲ゆかりの文書や資料が展示されている。展示室には、対 朝鮮外交に関する芳洲の著書、書状、掛け軸など数多く展示されている。また、年に何回か講師を招き、講演会も開催され ているという。他にもこの地区では、芳洲の心を受け継ぎ、昭和63年(1988)以来、韓国の中・高校生を招き、地区の民家 がホームステイを引き受け、草の根の国際交流を実践しているそうだ。
元禄元年( 1688)、対馬藩の儒学者で木下順庵門下の西山順泰(1660〜) が没し、藩は順庵に後任を求めてきた。対馬はその 地理的環境の故、古来より日朝交流の窓口で、徳川幕府は朝鮮外交の実務を対馬藩に命じていた。よって藩では進講のほか に外交文書の解読・起草、中国等の漂着船の 筆談役などをも務めうる学識豊かな儒者を必要としていたのだ。 順庵は当時 22歳の芳洲を抜擢した。順庵の進言もあり、芳洲は対馬藩江戸藩邸勤めのまま、引き続き順庵のもとで学ぶよう藩から命 じられた。翌年芳洲は中国語を学びはじめ、長崎へも数度遊学している。仕官から4年後、26歳で対馬に初めて赴任した。
26歳で対馬藩主の元に出仕、31歳で朝鮮支配役の補佐役を命じられ、はじめて朝鮮へ渡ったのは元禄15年、35歳の 時であった。先代藩主の引退報告の使者としてで、この時、芳洲は自分の職務に、朝鮮及び朝鮮語の理解が不可欠な事を痛 感したと言われる。翌年から2度、釜山の倭館(藩の外交役所)に滞在して、精力的に朝鮮語と朝鮮の諸事を学んだ。それ まで藩儒みずから朝鮮留学した例はなく、芳洲の意気込みと真剣さに藩主もいたく感激したと伝わる。36歳で釜山に渡っ た芳洲は、朝鮮の歴史・地理・風俗・人情とともに朝鮮語を学び、初めての日朝会話集「交隣須知」を、またハングル・カ タカナを併記したユニ−クな朝鮮語の入門書「全一道人」を著した。 第8次第9次の通信使来訪時には一行とともに2度、 対馬−江戸を往復している。豊かな外交経験をもとに61歳で「交隣提醒」を著す。この中に芳洲の先進的な国際感覚・品 性高き人間性があふれている。
以後約40年間にわたって、藩主への進講・真文役(外交文書の解読・起草)をはじめ、求めに応じ漂着船の筆談役・文庫 (古記録類)の書籍係・歴代藩主の実録編纂・朝鮮支配役の補佐役・朝鮮通信使に随行する真文役・参判使や裁判役(両者 とも藩から朝鮮へ派遣される使者・外交官)・幕府との折衝役・藩主の御用人などを務めた。自分自身の経験から、通訳の 重要性に着眼し、単に朝鮮語が上手なだけでなく才智・学問・篤実をそなえた質の高い通訳の育成を説き、対馬藩の通訳養 成制度の確立にもおおいに貢献した。
同じく木下順庵の弟子であった新井白石と芳洲は、多くの局面で意見の衝突をみる。有名なのは朝鮮通信使が持って帰る日 本からの国書に記す将軍の肩書きについてで、白石は日本国王を主張するが、芳洲はこれに反対する。それまで「大君」だ った称号を「日本国王」とすべきであるとして将軍の裁許を得、これを強行した。喜んだのは徳川将軍で、白石は賞与とし て加増を受けたが、天下の世論は白石のやり方に冷たかった。芳洲は「俗儒三種」の中で、江戸幕府を指して「覇府(はふ)」 と呼んでいるが、これは、中央(幕府)も地方(藩)も、それぞれの部門が支配する体制で「覇道」とする認識である。こ れに対して、王のもとに、文官が支配する朝鮮は「王道」だという認識で、国王を名乗れるのはこういう体制でなければと いう認識だったようだ。 これはこの時代のほかの学者には見られないユニークな芳洲の思想であった。芳洲は京都の育ちで、御所におわす皇室に対 する尊厳をイメージしていたのかもしれない。対する白石は江戸の生まれで武士の子である。徳川将軍の権力と、その威光 が絶対であった。この二人の生い立ちの違いが、両者の論争の中に見え隠れしているような気がする。 この王号問題は、単なる文書形式の論議ではなく、国の基本に関することであり、白石の認識は国際的にも配慮をかいてい たと言うべきであろう。この年(1711)の通信使は、帰国するや、朝鮮国王を日本の将軍と同格にされた責任を問われ処罰 されており、次回から吉宗が将軍となった事もあって、「日本国王」は元の「大君」に戻された。
【正徳元年 朝鮮国書捧呈行列図】 正徳元年度の通信使一行の様子を詳細に記録した絵巻で、全三巻。長さ43m。幕府老中・土屋相模守の命により、対馬藩が 町絵師40数名を動員して描かせたもの。対馬藩真文役として通信使に随行する雨森芳洲の姿も描かれている(下)。
通信使の製述官(通訳責任者)であった申維翰(シンユハン)は、享保4年(1719)に徳川吉宗の将軍職 襲位を祝賀するた めに派遣された朝鮮通信使付製述官で、この時の日本紀行が「海游録」で、製述官に選ばれた経緯から帰還するまでの約9 ヵ月間の記録である。雨森芳洲とは意気投合し、「海游録」にも芳洲を褒め称えた箇所がある。下はその申維翰から芳洲に 送られた朝鮮の頭巾。さらにその下が、それを被った芳洲の像である。
「誠 信 交 隣」(せいしんこうりん) 雨森芳洲は、相手の心(言葉・文化・習慣・歴史など)を知り、互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることこそ真の 交流であると唱えた。国際関係においては平等互恵を宗とし、外交の基本は誠信にあると説いたのである。これは、彼の先 進的な国際感覚を示し、現代でも指針とすべき言葉である。250年前、先駆けて真の国際交流を実践した芳洲の業績は、 近年とみに再評価されつつある。
【交隣提醒(こうりんていせい)】(重要文化財) 芳洲が61歳の時、対馬藩主宗義誠公に提出した対朝鮮外交についての意見書。豊臣秀吉の朝鮮侵略を「無名の師(いくさ)」 と断言し、「朝鮮の風俗・慣習をよく知り、互いに欺かず争わず「誠信」の精神で朝鮮外交を行うこと」を説いた「誠信外 交」として有名である。芳洲は中国語を学び、また朝鮮語を学習して、漢文を唐音で読み、朝鮮語でも読むことを習得した。 また、朝鮮語は地方の方言までマスターしていたと言われる。漢文は漢字だから、見た目には中国も朝鮮も日本も同じであ るが、その文の真意を理解するためには、それを書いた人の国の言語で読まなければ、という思いだったのである。単に文 字を習得しただけでなく、朝鮮の歴史や伝承、風俗や礼儀作法まで、正しく知ろうとしたのだ。日本と朝鮮とは、諸事風儀 も嗜好も異なるので、日本の風儀をもって交わると必ず不都合を生じると述べるなど、当時としては卓越した識見の持ち主 だったことがわかる。 朝鮮通信使の事が広く知れ渡るようになって、最近、芳洲の「交隣提醒」はよく読まれているそうである。芳洲の思想と実 践と学問とが結実した、外交の基本的な考え方を著した不朽の名著とも言われる。
残された雨森芳洲関係資料は、学問・思想・政治・外交・詩歌・書蹟・書翰・絵画など多岐にわたる。資料は対馬・韓国を はじめ全国各地に散在しているし、近年、朝鮮通信使と並んで芳洲の研究も盛んである。日本で初めてのハングル教科書も 編んだ芳洲の業績は、日朝交流史の研究が進む中、来日した韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領があいさつで引用したことか ら広く知られるようになった(1990)。慮泰愚大統領は、挨拶の中で芳洲の「誠信外交」を称賛し、現代の韓国で最も賞賛 されている日本人の一人であると、芳洲を称えた。 イラク問題やテロリズムを抱えた現代の複雑な世界関係の中では、はたして芳洲の「誠信外交」の理念が直ちに通用するか どうか疑わざるを得ないような国々も確かに存在するし、芳洲が善隣友好を願った朝鮮のもう一つの国、北朝鮮とはとても 一足飛びに友好を結ぶなどというのは、ここ当分不可能な事とも思えてくる。しかしそういった時期だからこそ、芳洲の提 言は、我々の一人一人が改めて胸に思い起こし、その理念の実践にむけて努力を重ねる時であるとも言える。
木ノ本駅の隣が「余呉湖」のある余呉駅で、昔行ったことのある湖にもう一度行ってみたくなり、日に1,2本しかない北 陸本線の電車に飛び乗った。余呉湖は、信長亡き後の覇を柴田勝家と秀吉が争った標高423mの賤ケ岳の麓にあり、静か で穏やかな湖面を持った爽やかな湖である。広大な琵琶湖の北にあって、あまり人も訪れない隠れた里で、湖面に沈む夕日 や朝焼けに光る山肌は素晴らしい景観を醸し出している。ちなみに賤ケ岳からは、北に余呉湖、南に竹生島が望め、琵琶湖 八景に数えられている。
別名「鏡湖」と称されるほどの穏やかな湖面を持った余呉湖は、一周約6km、1時間のハイキングコースになっており、 季節には家族づれ若者達で賑わう。冬のワカサギ釣りは特に有名だが、1年を通じて釣りの楽しめる湖としても釣客に定評 がある。夏場はキャンプもOKで、キャンプ場が整備されており、人手が多くないのでアウトドアライフが楽しめる隠れた 穴場にもなっている。
「天女の衣掛柳」と言い伝えられる湖畔のアカメヤナギ。説明板によれば、「八羽の白鳥が余呉湖に下り、この柳に衣をか けて水浴びしていたところ、衣を隠されたため帰れなくなり、結婚して生まれた子が土地を開いた」。さらに、「天女が衣 を隠した土地の長者と結婚して子をもうけたが、衣を見つけて天に帰った」という。後の話には、残された子が菅山寺で育 てられ菅原道真になったというおまけまで付いている。天女伝説は全国にあるが、菅原道真と結びついているのは珍しい。
余呉には新羅の皇子・天日槍(あめのひほこ)を祭神とした神社があり、湖畔には「新羅の森」と呼ばれる樹林も残ってい て、新羅からの渡来人が住みつき、農耕技術を伝えたと言われている。渡来民族が移って来た事実と、白鳥が舞い降りると いう朝鮮半島の寓話、天女が衣を見つけて天に帰る日本古来の話などが混じりあって、余呉湖の天女伝説ができたものと思 われる。しかしそれが、どうして菅原道真と結びついたのかはどうもよくわからない。
羽衣掛け柳を過ぎ、その前の道をまっすぐ行くと、余呉駅が見えてくる。10分くらいで余呉駅に到着。駅のホームから余 呉湖と北琵琶湖の山々が見える。冷夏とは言ってもやっぱり夏だ。晴れてくるととたんに暑くなる。