Music: 討ち入り前夜

赤穂浪士の街 赤穂市立歴史博物館





 

 


	清水門の西側に位置し、浅野時代は坂田式右エ門の屋敷があった。昭和58年(1983)に門と瓦葺き土塀を復元し、内部は
	部屋の間取り表現を行ったほか、井戸屋形や四阿などをもうけている。また屋敷内の植栽には、当時の侍屋敷の生活をしの
	ばせる野菜や薬草類なども植えられている。





 

 

 





 




	赤穂城の清水門の外にあり、往時には米蔵があった。外観は米蔵にちなんだ白壁の土蔵風の建物で、「塩と義士の館」とし
	て平成元年(1989)に建設された。常設展示は、国指定重要有形文化財の製塩用具を中心に「赤穂の塩」、模型・絵図・出
	土遺物からみた「赤穂の城と城下町」、史実と文化の両面からとらえた「赤穂義士」、出土遺物と映像で説明する「旧赤穂
	上水道」の4テーマから構成される。





 

 

壁に架かっているのは塩田用具。下は塩を運んだ廻船。赤穂の塩は江戸時代中期から後期にかけて、江戸の町でも盛んに消費された。

 



 


	赤穂市上高野発見の銅鐸鋳型

	大正5年(1916)頃、赤穂市上高野の千種川河原で発見された「銅鐸鋳型」は、当初それだとは気づかれず、近所の主婦が
	約10年間漬け物石として使用していた。しかし刻まれた文様が菩薩像の光背に似ていたことから、千種川の堤防上に地蔵
	堂が建てられ、長い間そこに祀られていたのである。昭和51年(1976)、赤穂市文化財調査委員だった松岡秀雄が調査し、
	銅鐸鋳型の紐(ちゅう)の部分であることが判明した。当時としては、関西地方に於ける銅鐸鋳型の発見は、姫路市名古山
	と大阪茨木市東奈良の2例が知られていただけだったので、考古学会では一躍注目を浴びたようである。昭和56年に赤穂
	市文化財の指定を受け、平成5年には兵庫県指定文化財となった。
	この鋳型から製造される銅鐸は、高さが約80cmにも及ぶ大型の銅鐸と推定され、鋳型に残っている部分では、鋸歯文(き
	ょしもん)、渦文(かもん)が確認できるが、身の部分については推定で流水紋、袈裟襷紋などが考えられている。推定復
	元された銅鐸は流水紋が施されている。
	また、この鋳型が発見された千種川周辺には弥生遺跡は存在せず、鋳型を取り巻く状況については謎に包まれている。千種
	川を流れてきたとは考えられず、川の流域から2個の銅鐸が知られてはいるがいずれも新しい時代のもので、この銅鐸と直
	接の関係は無いようである。またこの鋳型で製造されたと見られる銅鐸本体も未発見なので、もしかすると、この播州赤穂
	のいずれかの地に、今も人知れず眠っているのかもしれない。
 

 







 





 










	どうして赤穂の街には上水道が発達したのかを話していたら、発達したのではなく必然だったらしい。そこいらを掘っても
	塩分が多くて飲み水になるような井戸はなかなか掘れなかったと言うのが真実らしい。城内へのみならず、この上水道は、
	城下町の町屋の台所でも使われた。上水道から各戸の井戸へ水を流していたのである。