Music: 討ち入り前夜

−赤穂浪士の街− 長屋門




 



昔は赤穂城と言えば必ずこの写真だった。今は博物館の南側に、発掘された成果を元に、本丸跡・他が復元されつつある。



 




		以下の解説は、長屋門で貰ったしおりから転載した。

		【文化財指定までの経緯】
		近藤源八宅跡長屋門は、「源八長屋」の愛称で親しまれ、昭和60年に赤穂城跡整備のため、その敷地と建物の公有化が図られた。
		長屋門は、建物部材に残された痕跡などの現況調査から、江戸時代後期の長屋門の長屋部分の一部であることがあきらかになった。
		赤穂城内に残された数少ない貴重な江戸期の建物は、大石良隆宅跡長屋門とこの源八長屋のみである事から、平成10年4月27日
		に「近藤源八宅跡長屋門」として赤穂市指定文化財に指定され、解体調査・発掘調査を行い、平成11年3月に復元整備が完了した。
		建物内部はその活用を図るため公開されている。

 


		【近藤家】
		近藤源八正憲(まさのり)の養父近藤三郎左衛門正純(源八は三郎左衛門の弟の子)は、甲州流軍学者小幡勘兵衛景憲(かげのり)
		の門人であり、刃傷事件を起こした浅野内匠頭長矩(ながのり)の祖父である長直(ながなお)の代に禄高千石の軍学師範・家老と
		して仕え、長直が正保2年(1645)に赤穂に移封された際に、赤穂城の縄張り設計を行ったことで功績のあった人物である。
		源八自身も甲州流軍学を修め、千石番頭の重職にあった。源八の妻は、大石内蔵助良隆の叔母にあたり、大石家とは親戚関係にあっ
		たが、最初から義盟には加わらなかった。




		【調査と復元】
		現在残されている長屋門は、部材の残存状況から18世紀以降に建て替えられたものと推察されるが、発掘調査の結果から基礎部分に
		大きな改変は認められず、源八時代の長屋門とほぼ同規模であったものと考えられる。復元修理に伴う解体調査では、柱に墨書された
		柱番号が発見され、当初19本の柱列があったことが判明し、大石良隆宅長屋門を遙かに凌ぐ総長21間半(約42.3m)の規模をもった
		長大な長屋門であった事があきらかとなった。長屋門の門部分は、周辺住民に伝えられた伝説から、大石良隆宅長屋門の斜め向かいに
		位置していたと考えられる。

 


		【みどころ】
		長屋門の長屋部分は、4戸分に別れており、それぞれ下級武士の住宅に使われていたようである。現在残されている長屋部分は、その
		内の北端部の1戸とその南隣りの1戸の北端の1部屋である。修復については、礎石や、柱材、梁材、天井、瓦、壁等の使用できるも
		のは極力保存している。入り口部分の土間は、炊事場であったと考えられ、煙出し窓や、天井周囲に残された煤が当時の生活ぶりを偲
		ばせている。また、簀子(すのこ)野地天井は建築当時の姿を保っており、屋外にある赤穂旧上水道の汲み出し桝とともに人気が高い。






		大石家は代々浅野家に仕えた重臣で、赤穂入封から断絶まで家老として大手門内側の一画に屋敷を構えていた。屋敷地は間口28間、
		奥行き45間余りの広さを誇り、庭には池泉も造られていた。屋敷地は大正12年(1923)国史跡に指定されている。長屋門は城内に
		残る数少ない江戸時代建築の一つで、昭和54年(1979)には解体修理が行われた。刃傷事件を知らせる早籠が叩いたのもこの門である。

 

瓦にも家紋が入っている。