Music: 討ち入り前夜

−赤穂浪士の街− 花岳寺 



息継ぎの井戸から、側溝に水が流れる町中の旧道を行くと、ゆっくり歩いても5,6分で花岳寺に着く。


 

 

		正保2年(1645)の浅野長直が父華嶽院と母台雲院の菩提寺として建立し、その法名から台雲山華嶽寺と称した。曹洞宗永平寺末寺。
		以後、歴代赤穂藩主となる永井家、森家の菩提寺でもある。
		境内には、浅野家墓碑、森家墓碑、赤穂義士47人の墓碑、義士宝物殿、義士木像堂、大高源五の句碑等があり、赤穂藩や義士関連
		資料が数多く保存されている。本堂天井には江戸末期の法橋(ほっきょう)長安義信による天井絵「竹と虎」が描かれている。山門
		は、もと西惣門であったものを明治6年(1873)に花岳寺21代仙珪和尚が購入移築したものであり、平成3年(1989)3月に市指定
		文化財となっている。また、赤穂城の縄張りを行った近藤正純の墓が妙慶寺から移されている。


「大石なごりの松」が、その広い枝振りを誇っている。




		大石内蔵助良雄(よしたか)とその一家は赤穂城開城前から尾崎に借り住まいし、内蔵助は開城後の残務処理を6月まで続けた。6月
		中旬には、妻と子息を、自身は6月25日に京都・山科に向けて新浜港(御崎)から出立した。このとき船上から幾度と無く見返し、
		赤穂への名残を惜しんだのがこの松と言われている。現在は2代目であり、初代の松は幹が休憩所の入り口に展示されている。
		下は、松の由来を読む宏美ちゃん。
 

 



  

		吉田忠左衛門の足軽であった寺坂吉衛門信行は、吉良邸への討ち入り後、泉岳寺への帰路に大石に呼ばれ、密命を受けて行列から姿を
		消した。その密命とは、謀議に加わった藩士の家族を訪ね、事の顛末を説明し、託してある金子を残された遺族に分配して廻るという
		仕事だった。寺坂は地道にこつこつと全国に散った遺族を訪ね歩き、その使命を全うする。最後まで藩士であったことは隠し通し、83
		才で江戸に没した。この事実は最近になって判明し、それまでみんなが知っていた、全員切腹という事実は誤りだった事が明らかにな
		った。切腹したのは実は46士だったのである。ここの説明も最初47士としていたのを、上から46に変更してある。
		それにしてもそれからの数十年を、寺阪吉衛門は一体どういう心境で過ごしたのであろうか? 何時の世も、歴史の渦中にいる者達は、
		その多くが黙して語らない。