Music: 討ち入り前夜

−赤穂浪士の街− 歴史倶楽部第58回例会  2001.12.15 播州(兵庫県)赤穂市

	
	今月の例会は珍しく江戸時代となった。東京から単身赴任している河原さんの、「是非赤穂を見たい」という要望と、どうせ行くなら義士祭を
	見に行こうという事だったのだが、残念なことに義士祭の14日は金曜日であった。まさか会社を休んでいくわけにもいくまい、という事で、
	義士祭の次の日行こうと言うことになった。私はほとんど20数年ぶりに訪れた赤穂の街だったが、ずいぶん綺麗になっていた。

	今年は前夜祭も開催/赤穂義士祭 (12/11  Asahi.com)
	--------------------------------------------------
	年末の赤穂市を彩る赤穂義士祭が14日、市中心部で繰り広げられる。今年は、江戸城・松の廊下で起きた刃傷事件に始まる一連の=赤穂事件=
	から300年。これを記念して初めて、470発の義士追悼花火を打ち上げるなどの前夜祭も計画されている。
	義士祭で呼びものの市中パレードは、23団体約1400人が参加。14日午前11時、市内4小学校の金管バンドを先頭に赤穂城跡大手門前を
	スタート、約1・5キロ離れたJR播州赤穂駅前を目指す。このあと、子ども会や企業の各種パレード、義士娘こし道中、こども大名行列などが
	続く。一般公募者や有年地区自治会連合会員がふんしたメーンの義士行列は、午後2時20分から出発、祭りはクライマックスを迎える。義士祭
	を盛り上げるスターパレードには、女優の薬師丸ひろ子さんが参加する。
	市内47団体でつくる忠臣蔵キャンペーン実行委員会は、「祭りを機に、赤穂を全国に発信しよう」と、沿道に3台のカメラを設置、パレードの
	模様をインターネットでライブ中継する。アクセスポイントは、市のホームページに表示する。前夜祭は13日午後5時10分からあり、市中心
	部を踊りの列がパレード。続いて赤穂城跡本丸の特設舞台で、太鼓やしし舞、忠臣蔵芝居などが繰り広げられる。同9時からは、フィナーレの義
	士追悼花火が夜空を焦がす。




		本日の参加者は、河原さん、栗本さん、松田さん、錦織さん、秋山さん、それに私の計6名。大阪から赤穂までは遠かった。昔はあった
		のだが、もう大阪から赤穂行きの直通列車は廃止されている。姫路まで行って、相生で赤穂線に乗りかえる。都合約2時間かかる。料金
		も往復5,000円ほどかかってしまう。30年近く前、大阪へはじめて出てきた頃赤穂へ来たことがある。その頃のイメージでは、古びた
		田舎の城下町という感じだったのだが、今回訪れて驚いた。ずいぶん綺麗になっている。駅前もそうだし、旧跡もずいぶん整備されてい
		た。まだ整備途中のところもある。
		帰りに神戸へ寄って、ルミナリエの点灯瞬間を見ようというので、ずいぶんあせったおかげで、整備された赤穂城跡を見逃してしまった。
		昔は城跡などなかったので(見学できる形では)、博物館が終わったらさっさと引き上げてしまったのだが、結局ルミナリエにも間に合
		わず、惜しいことをした。あほやぁ〜。
		(赤穂城の発掘整備はほとんどが、私が前回訪問した後の30年間に行われたものらしい。平成に入ってからも発掘調査は続行され、全
		貌が明らかになったのはつい最近の事である。)






吉良上野介の屋敷跡守り続けて半世紀(2001/12/13)
-------------------------------------------------

14日の「討ち入り」で、赤穂四十七士に倒された吉良上野介の屋敷跡(墨田区)を守り続けて半世紀。80歳になる大川久子さんは今もお供えをし、きれいに掃除する。忠臣蔵の「敵役」も、故国の三河では名君と慕われていた面もあった。300年、「悪役」であり続けた吉良氏を思いやる第2の地元の姿だ。
午後4時、墨田区両国3丁目の吉良邸跡。高さ約2メートルのなまこ壁に囲まれた屋敷跡で、白いかっぽう着に着物姿の大川さんがお稲荷(いなり)様に線香をあげ手を合わせていた。毎朝、朝食前に炊き立てのご飯を供える。今は公園となっている屋敷跡を掃き掃除する。夕方、ご飯茶碗をさげて、またお参り。週に1度は花も生け替える−−。
大川さんは、すぐ近くにある老舗(しにせ)の和菓子屋「大川屋」の元女将。敗戦翌年の1946年に杉並区から嫁いだ。しばらくして、吉良氏の供養に市川市から来ていた女性と知り合い、吉良氏が必ずしも忠臣蔵でイメージされる「悪役」ではないことを熱心に聞かされた。「家も近いので、私が毎日供養しましょう」。そう約束した。大川屋は旧吉良邸の敷地内にあるという縁もあった。

「吉良邸」を守る大川さんの話を伝え聞いて、店に立ち寄るようになった郷土史家たちから、吉良家にも主君を守ろうと殺された家臣がいたことを教えられた。胸が痛んだ。「吉良家の家臣の遺族たちは身を小さくして生きてきた。せめて供養をしたい」。15年ほど前、討ち入りで命を落とした吉良家の家臣20人の名を彫った石碑を、お稲荷様の隣に建てた。
そんな思いが通じたのか、四十七士の側に立った「義士祭」と一緒に、地元の人たちが「吉良祭」も開くようになった。それでも、毎年、この時期になると、テレビなどの「忠臣蔵」で悪役として描かれる吉良氏。最初のころは、大川さんが毎日絶やさない線香の灰がまかれたり、茶碗を割られたりされたこともあった。いやがらせが影を潜めたのは、吉良氏の実像が見直され始めた10年ほど前からだという。
「ほっとしています。人間だれにも間が悪いということはあるでしょう。浅野家がすべて正義で吉良家は悪いとは言えないと思う」。大川さんが老いてからは掃除や朝のお供えを手伝う次女の康代さん(53)も話す。
 今年の吉良祭と義士祭は15、16日。大川さん親子は自慢の和菓子を屋敷近くの露店に並べる。
    ◇        ◇
 吉良氏のふるさとは、三河国吉良庄(現愛知県吉良町)。洪水の被害に苦しむ領民のため、堤を築き二毛作のできる乾田に変え、豊作を保証したという逸話もあり領民から慕われたという。兵庫県赤穂市の呼びかけで、89年から忠臣蔵にゆかりのある自治体が、「義士親善友好都市交流会議」を毎年開いているが、93年に吉良町も参加することになり、「歴史的和解」と騒がれた。
 吉良邸跡は1919年、都が「赤穂義士元禄義挙の跡」という名前で文化財に指定した。ただ、「義挙」には「主君を思ってやった素晴らしい行為」という意味が込められているため、「地元では名君と言われた人。討ち入られた側に討ち入った側の名があるのはおかしい」という声もあがっている。現在は墨田区の本所松阪町公園。吉良氏の首を洗ったとされる「首洗い井戸」とお稲荷様が残っている。
(Asahi.com?)

























		最近の研究の結果、赤穂浪士に関しても随分いろんな新発見が出現している。四十七士と言うけれど、切腹したのは実は46人だった
		とか、吉良上野介はほんとは名君で、地元ではずいぶん慕われていた殿様だったとか、浅野内匠頭は実は躁鬱症の気があり、勅使饗応
		役はもともと無理だったのではないか、とする意見などである。今後も、真贋いりみだれていろんな説や新(珍)発見が出現するだろ
		うが、ともあれ、最終的に復讐という行動へ突っ走っていった侍達のやり場のない心的世界や、それを取り巻く人々の物語は、いつの
		世になっても「大忠臣蔵」として我々の心に、ある種独特の感慨を引き起こすのは間違いないだろう。


謝辞: このページで使用している、「勝ちどき」「侍」「殿中松の廊下」等々のアニメは ATNET(絵亭)さんから拝借した
ものです。記して謝意を表明します。【絵亭 Copyright(C) Atnet Japan All Rights Reserved】


邪馬台国大研究ホームページ / 歴史倶楽部 / 播州赤穂