Music: はな

青春の城下町ふたたび 秋月城



	郷土館を出て秋月城跡へむかう。ここはいま、私の出た秋月中学校である。この中学校での3年間に、今の私のメンタリティーは
	完成されたような気がする。こんな所に学校があって、そこで思春期が過ごせたのは私の人生における僥倖かもしれない。





	上の石垣の上に一年生の校舎が並んでいた。この先の正門へ廻れば更に5分ほどかかるので、遅刻しそうなときはこの石垣の裏に
	ある石段をよじ登って登校していたが、時々上に先生が立っていた。やさしい先生は「今日だけやで」と言いながら通してくれた
	が、厳しい先生は「正門へ廻れ」とあえて遅刻させるのだった。



我々の時代にはこの堀に蓮が植わっていて、夏休みが近づくと総出で堀の中を掃除させられた。







江戸時代にはここが登城門だったようだ。











南から見た長屋門。江戸時代に中間や下男下女が住んでいたのかな。或いは下級武士の詰め所だったのかもしれない。







垂裕(すいよう)神社の鳥居。垂裕神社は秋月藩始祖・黒田勘解由長興を祀ってある。






	この「黒門」は、黒田氏の前の戦国時代、秋月を支配していた秋月氏の、古処山にあった山城の門を移築してきたもの。秋月氏は
	秀吉に負けて日向の高鍋(たかなべ)へ流された。秀吉は、島津との同盟を断ち切って秀吉の味方をすれば秋月氏に百万石を与え
	ると言ったが、中央の情勢に疎い秋月氏はこれを断り碌々戦わずして秀吉の軍門に降り、三十六万石を召し上げられて三万石で日
	向へ落ち延びた。秀吉への恭順を説く部下の意見を聞かず負けた秋月種実は、日向へ向かう道すがら振り返って秋月の街を眺め、
	「例え十石でもいいからここに留まりたい」と言って泣き、その場所は今も「十石峠」として残っている。



この石垣は、秋月藩士達が自ら土方となって築いたもの。ために「侍坂」と呼ばれていたらしい。



	私は中学三年間一人の女生徒に恋していたが、私が中学生の時に作り、60歳の還暦同窓会で初めて彼女に渡した俳句は以下の通り。

		秋

		あの人を  じっと見ている モズと僕
		柿の実が  僕に当たれと  あの人が
		風に乗り  想い伝えて   赤とんぼ
		濃紅葉に  君が溶け込む  城の跡
		ポスト前  出すの止めろと 野分かな
		野分かぜ  あなたの声が  するような
		夕焼けに  燃えてしまうか 紅葉恋
		すすき原   あなたと駆ける 夢の中


	この梅園に藩主長興の館があった。秋には燃えるような紅葉で一面覆い尽くされる。



長屋門の裏側。私が中学生の時は、友人の女生徒一家がここに住んでいた。





秋月の街にいまも残る武家屋敷の跡。



上左の一軒に、幼稚園時代の先生が住んでいた。綺麗な先生で顔を見るのが楽しみだった。



武家屋敷の跡。廃藩置県の後、藩主が東京へ移ると家臣達も次々に東京へ移転し、宅地は忽ちの内に変わっていった。



それでも東京へ行かなかった侍達も居て、友人の何人かはその子孫だった。



上左の小道は、「男はつらいよ 28作・寅次郎紙風船」で渥美清があるいた川筋の小道である。





青沼先生が描いた「眼鏡橋」と同じアングル。


邪馬台国大研究ホームページ / 青春の城下町ふたたび / 秋月城