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青春の城下町ふたたび 秋月郷土館




基本的にここも写真撮影禁止なので、郷土館の要請を受けて右クリックの写真保存は出来ないようにしてある。




今日は二階へあがり、まず民族資料から。子供の頃に見たものがたくさんある。











































一階は秋月藩関係の資料があるが、今回はほんの一部しか撮影していないので、残りは10年前のページをご覧頂きたい。













	福岡藩主黒田忠之(ただゆき)は、父黒田長政が嫡男の自分を無視して三男の長興を可愛がり、福岡藩主の座さえも長興に渡そうとして
	いたので、弟の長興を激しく憎んでいた。元服の頃から、父長政からは面と向かって、
	「お前は長興の爪の垢を煎じて飲め」と言われる程疎まれていたし、「侍をやめて坊主になるか商人になるか選べ」とも言われていた。
	京都の東福寺で長政が逝去する際にも、重患の長政が忠之を枕元に呼び、お前に福岡藩を任せたら黒田家は十年で滅びるから家督は長
	興に譲るとさえ言われている。

		我等死期近きにあり。如水及我等が忠節によりて得たる大封を汝に譲らんに、
		十年を期せずして、必定家名断絶の禍を取るべきなり。我等が死後は家督は勘解由(長興)
		に譲り、官兵衛(隆政)を東蓮寺に分地して扶翼となすべきに依り、其分心得べし。

		                  				(長興公御代始記)

	と記録にあるが、これは、最終的には正式な遺言状(上)が福岡藩大老栗山大膳らに長政から託されているので、恐らく後世の脚色、
	付会だろうと思われるが、それ程長政は忠之に福岡藩を任せるのが存念だった事が窺えて興味深い。

	忠之はまた、長政の遺言に従って弟の三男長興に秋月藩五万石を、四男隆政に東蓮寺藩四万石を分与するのが何としても惜しく、家老
	の栗山大膳と謀って長興の江戸参府を妨害し、秋月藩の成立を阻止しようとさえした。その目論見は成功しなかったが、忠之と長興の
	確執は忠之が死去するまで続くのである。
												(井上筑前著:「秋月藩物語」より)

















敬愛する青沼先生の絵がしっかり飾ってある。私が青沼先生を知ったのも眼鏡橋を描いた絵だった。(「青沼茜雲の世界」参照)



	青沼先生からは「太宰府遙拝」と「日本の雅楽」のルーブル製・リトグラフ版画を貰った。今私の書斎のPCの上に飾ってある。
	「太宰府遙拝」は本物は10m近い大作で、見ているだけで雅な平安朝の時代へ吸い込まれてしまいそうである。どこかの美術館
	が買って早く飾らないかと思うのだが、まだ売れずに先生の書庫に眠っているようだ。金があって家が広ければ私が買うのだが。


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