
−以下の文章は「歴史倶楽部」コーナーの「高瀬川物語」から転載・加筆した。−
私は今大阪に住んでいる。前述したように、秋月に生まれ、大学時代を博多で過ごして大阪に就職した。卒業前に内定していた
フクニチ新聞社が、73年のオイルショックで編集局内定者15名をすべて内定取り消しにした時、私はどうにも我慢ならなく
て新聞社に怒鳴り込んだ。応対した総務課長はさんざん企業の身勝手を詫びた後、「あなたのような積極的な方ならきっとすぐ
(就職が)見つかりますよ。」とのたもうた。就職試験解禁が7月1日、内定が8月中旬、オイルショックが11月下旬だった。
私は焦った。もうろくな会社は残っていないだろうと思うと腹が立ったが、まさか留年するわけにも、就職浪人する訳にもいか
ない。何とか探して働き口を見つけなければならない。

「八幡宮への入り口に咲く桜」(水落氏の「筑前の小京都 −秋月−」HPより転載)
フクニチ新聞社には実は、誕生日が1週間違いで、東京の大学で社会学をやっていた私の従兄弟も内定していた。二人で偉い事
になったなぁ、とボヤきながら、片っ端から面接を受けて2,3の会社に合格した。もうマスコミ志望などと言っている余裕は
私にも従兄弟にもなかったのだ。小さな静岡のお茶の問屋(今や超有名な飲料水メーカーになった。伊藤園)、神戸の小さなレ
コード会社(ここはその後潰れたようだ。名前も覚えていない。)、そして有名なCOPYマシンの会社(富士ゼロックス。ここは
どうして受かったのか未だにわからないが、当時、誰もが行きたがる有名な日米合資の、当時では超優良会社だった。)から採
用通知が来た。しかし私は、心のどこかで、違う、違うと思っていた。


私の父は、当時大阪松屋町(まっちゃまち)の結構大きな玩具問屋の九州支店長をしていた。西鉄電車「朝倉街道」の駅前に九
州店があった。学生時代はよく手伝わされて、三輪車を組み立てたり、できあがったオモチャをトラックに積んで久留米や小倉
や長崎のオモチャ屋やデパートに運んだものだ。甘木にあった西鉄ストアのオモチャ屋にもよく通った。
志望していたマスコミへの望みを絶たれて、もうどんな業種でも良いという私の言葉に、「俺の会社に来るか」というので、年
が明けた2月、父と大阪の問屋を訪ねた。社長の息子というのがこれまた私と同じ年で、もうじき大学を卒業してやがてはその
会社を継ぐというので、「君にはXXX の右腕になってもらいたい」とその時社長から言われたが、1日、会社の中や倉庫やら経
営するゴルフ場やらを案内して貰いながら、父には悪いが、番頭はんと丁稚どんにも似た社内の気風や前近代的な業界の空気に、
私は心の中で「だれがこんなとこくるか」と思っていた。社長には曖昧な返答をしたまま父は博多へ帰り、私は京都ホテルで働
く大学の先輩を訪ねていった。ワンダーフォーゲル部の先輩で美人だった。先輩は勤務を休んで私を京都見物に連れだした。そ
の時案内して貰った嵯峨野で、横なぐりの雪を受けてしきりに髪をたくし上げている彼女の姿を見て、私は「ここ(京都)で働
こう」と決めた。


以下は、高校の同期生だけでやりとりしているML(mailing list)で、「親離れ・子離れ」についてやりとりした時のもの。
「おはようさん。筑前@ナニワです。
哲ちゃん、
>今日、次男から国際電話が掛かって来たそうです。電話をかけているだけでホー
>ムシックになりそうだったから早く切ったそうです。
セガレの心境を思ったらつらいよね。親の心も断腸の思いじゃないかという気がする。
僕はこの歳になっても、就職して秋月を出て行くときのことが忘れられへん。
前の会社(日立)に就職して横浜へ旅立つ朝、長谷山の家を出て、バス停まで200m
くらい歩いて行ってバスを待ってるとき、家の二階が見えてた。そしたらそこの窓が開い
てお袋が顔を出したのがわかった。手を振ってるわけでもなく、顔の表情がわかるわけ
でもないのだけれど、その時僕にはお袋が泣いてるのがはっきりわかったんや。
つらかった。「俺はどうして両親を置いて横浜くんだりまで出稼ぎにいくんやろう」と本気
で思った。やがてバスが来て、僕は出て行ってしまったわけやけど、10年ほど前に、
お袋にその日のことを聞いてみたら、「みえとったね。」と言っていた。
子は巣離れせないかんし、親も子別れせんと生きていけんのは、動物の世界では普通
やけど、キツネの親なんかも、子を巣から追い出すときはツライんかなぁ。それとも人間
だけやろうかねぇ、ツライんは。」
結局、仕事は横浜のコンピュータ・ソフト会社に決めて、大阪営業所を希望した。3ケ月の研修を終えて大阪に赴任し、あの
時、博多行きの寝台列車の客室まで来て「京都から博多までやね。」と言って、「あぁ、私も修ちゃんと博多に帰りたいなぁ」
と見送ってくれた先輩を訪ねたが、彼女は既に京都ホテルを辞めていた。横浜の会社は5年で辞めて、今の会社でもう24年
目になる。顧客も京都に何社かあり、私的にも公的にも、京都を訪ねる機会は多い。詩的で美的な部分ばかりでなく、京都の
暗部や恥部も知ったし、京都人の良い面、嫌な面も見てきた。しかしこの街は、千年の歴史をかかえて今も私を誘う。私の内
定を取り消したフクニチ新聞社も、松屋町の玩具製造問屋「スター・チクシヤ」も今はない。いずれもこの24年の内に倒産
した。



(出典:物語秋月史)
新聞社には高校時代の友人の淵上君が、私より1年早く就職して編集局にいたが、内定取り消しの時には大いに同情してくれ
た。しかし、フクニチ新聞社が倒産したと聞いた時には、私は彼にかける言葉が見つからなかった。雪の中私を案内してくれ
た美人の先輩は、その後、同じくワンダーフォーゲル部の先輩(彼女の同期生)と結婚し、今福岡市で夫婦でコンビニを経営
している。高校生時代、佐世保に「エンタ−プライズ寄港反対」デモに行ったり、刑事が家まで尾行してくる程の活動家だっ
た従兄弟は、その後紆余曲折を経て、今や東京都の練馬区議員で、都自民党の中堅である。結婚式にはガッツ石松が祝辞を述
べていた。人生とは全くわからないものだとつくづく思う。そういう経緯があって、私は今でも秋月に似た京都の町が大好き
である。もともと高校生の頃から京都への憧れはあったのだが、あの時の、雪の嵯峨野の光景は、30年後の今でも脳裏に焼
き付いている。
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