Music: 茶摘み
御庵(ごあん)

青春の城下町






		私の実家の裏、歩いて7、8分のところに「御庵」(ごあん)と呼ばれていた祠(ほこら)があった。いや今もあるのだが、こ
		こは祠と呼ぶには大きく、神社でもなく、勿論お寺でもない。由緒から言えばまさしく「庵」なのである。

		ここに、昔秋月藩の何代目かの藩主のゆかりの人が尼僧となって移り住んだ。その記事がどこかに載っていて、名前も載ってい
		たのだが、いまだ、どこに記載されていたのか探し出せないで居る。そのいわれ等々も載っているのだが、発見したら再度掲示
		したいと思う。その人の墓と思われる石柱も広場の角にあった。



実家から歩いてきた道から見る「御庵」全景。左方の大きな木の、上の段にあった畑は、かって我が家の梨畑だった。




		桜が満開の時期はほんとに見事で、子供時代の我々は、桜吹雪の下でさまざまな遊びをしたり、悪だくみの相談をした。石塔の
		周りを駆けめぐり、御堂の屋根の上に登って銀杏の実を落としたり、鳥居の先にある石段を昇ってお稲荷さんのお供えをくすね
		たりした。また、納骨堂の芝生の広場へ会場が移るまでは、ここが長谷山地区の花見の会場で、その日は足の踏み場もないほど
		この広場は人で埋め尽くされていた。今はもう花見も行われていない。




		上左の鳥居の右側にこの庵を起こした尼僧の墓がある。実家の母が行って見てきてくれたが、「慈仙智海禅尼」(表)「■應廿
		年四月十九日」(裏)と刻んであったという。



	
		このお堂の先には拝殿もあってお堂との間は飛び石で結ばれていた。観音様とお釈迦様の像が安置されていて、4月8日には、
		ここで子供達はお釈迦様の誕生日を祝い、甘茶をもらって何か行事を行っていたが、何をしていたのかもう忘れてしまった。




	
		かって昭和30年代頃までは、集団で行っていた村落の多くの作業が、次第に個別の家々自体での作業に変化していったが、そ
		れは次第に兼業農家が増えていったことと、農協が耕耘機や田植機をそれぞれの家に売り込んでいった事などにも起因している
		が、何より我々日本人の意識自体が変化していったからだろうと思う。
		次第に高学歴者が農村にも増えていって、さまざまな社会意識の変革が行われ、個々の生活の重要性にみんなの目が向けられる
		ようになると、かっての共同幻想のような牧歌的な生活が廃れていくのはいわば必然なのかもしれない。形だけでもかってはあ
		った、運命共同体のような農村はもう戻らない。苦しかった生活や金繰りに追われていた過去を、ノスタルジィーというオブラ
		ートに包んでいかに美化したとしても、ほんとにその時代へもう一度戻るかと問われれば、誰しも御免被りたいのが当然だ。
		しかし、酒とストレスによる肥満と闘いながら日々を送っている都市生活者の目から見たら、何かその時代に人間社会の「真理」
		のようなものが存在していたような気もするのである。

2004年正月、弟が送ってくれた御庵から見た長谷山の雪景色。



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